羽生結弦「ひとりになった時に帰れる場所を提供できたらいいなと思って」東京ドーム単独公演で大観衆に贈った「ギフト」 (4ページ目)
【プログラムに新たな命を吹き込む】
約2時間半の公演。羽生は「本当に大変なことだらけでした。まず東京ドーム公演ということよりも、ひとりでこの長さのスケートのエンターテインメントをつくるというのが非常に大変なことで......。
今シーズン初めて完全に単独で滑りきるアイスショーをやってみて、『2時間半持つかな?』と正直思ったんですけど、ドームの会場だったからこそできる演出と、MIKIKO先生や東京フィルハーモニーとか本当に名だたるメンバーが集まったからこそできた、総合エンターテイメントがつくれたのではないかと実感しています」と振り返る。
「正直、課題ももちろん出ているし、もっとこうすればよかったというのもあります。ただ、『GIFT』という公演に関しては一回きりで、本当にフィギュアスケートならではの一期一会な演技がひとつずつできたということに関しては、自分自身すごく誇りを持っています。
少しでもみなさんのなかに今後、ひとつのピースでもいいので記憶に残ってくださったらうれしく思います」
今回滑った12曲のプログラムは、それぞれに違う意味を持っているもので、『GIFT』という物語とはまったく関係がないものだとも羽生は言う。
「『GIFT』という物語にこのプログラムたちを入れることによって、もしくは演出とともにこのプログラムがあることによって、それぞれに新しい意味をつけられるのではないかというふうにも考えて滑りました。
フィギュアスケートは言葉のない身体表現だからこそ、受け手の方々がいろんな意味を感じることができるのも醍醐味だなと思っていて。
だからこそ物語をつくって、その物語のなかのひとつのピース、そしてプログラムが見られた時に、どんなことをみなさんが受け取ってくださるかということを考えながら、プログラムを構成しました」
自分がこれまで演じたプログラムを、「過去の遺産」にせず、また新たな命、生命力を吹き込みたいという思い。それもまた、新たな道を歩き出した羽生がやってみたいことなのだろう。
プロ転向後、『SharePractice』から『プロローグ』を経て『GIFT』へと続いてきた羽生の取り組みは、ここからさらに始まっていく。
著者プロフィール
折山淑美 (おりやま・としみ)
スポーツジャーナリスト。1953年、長野県生まれ。1992年のバルセロナ大会から五輪取材を始め、夏季・冬季ともに多数の大会をリポートしている。フィギュアスケート取材は1994年リレハンメル五輪からスタートし、2010年代はシニアデビュー後の羽生結弦の歩みを丹念に追う。
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