【プロレス】藤原喜明が振り返る半生 新日本プロレス、UWF、藤原組と渡り歩いた「関節技の鬼」の原点 (2ページ目)
実家では高校を卒業するまで過ごしたが、一番古い記憶は2歳の頃だという。
「藁(わら)で編んだ籠を、東北の言葉で『えんつこ』って言うんだけど、親が田んぼで仕事している時、小さい子供がどっかに行かないように入れておくんだよ。俺も両親が田んぼで働いている時、土手みたいなところに置かれてたんだ。ところが、何かの拍子にゴロゴロ転がって、田んぼにドボ~ンって落っこちてな。親父とおふくろが慌てて助けにきたのを覚えているよ」
広い自宅では囲炉裏に落ちないように、腰に麻ひもを巻かれて柱につながれていたという。
「体が弱かったから、小学校へ行くまでは、親父とおふくろがいない時は『家から出ちゃいけない』ってしつけられてたんだ。だけど俺は、好奇心が旺盛で、庭で木登りして肩を脱臼したこともあったな。風邪もひいたし、肺炎、中耳炎もよくかかったよ」
江釣子第二小学校(現在は江釣子小)に入学すると、家業の農作業を手伝った。
「小学校に入ってから、俺は馬の世話係になってな。主な仕事は、ブラッシングとエサやり。ブラッシングは、馬を川に連れて行って水浴びさせてブラシをかけてあげるんだ。3年生くらいからは、馬に乗って川まで連れていったよ。
ただ、農耕馬って重労働なんだ。あの頃はエサといっても粗食で、5、6歳になると農耕馬として使えなくなっちまうんだよ。そうすると新しい馬がくるんだけど、かわいがっていた馬と別れちまうから......悲しかったなぁ。そういう厳しい現実が俺の日常生活だったから、人間は自然のなかで生かされているってことを教えられたような気がするな」
【初めて見た力道山の試合に「なんなんだ、これは!」】
春には田植え、秋になれば稲刈りと、あらゆる仕事を手伝った。
「畑仕事は、みんな大変なんだ。楽な仕事なんかひとつもねぇ。学校から帰ると手伝わされるから、家に帰るのが嫌だったよ」
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