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【新日本プロレス】棚橋弘至×藤波辰爾 新旧社長対談 「なんでまたオレの時にいろんなことが起こるんだ」 (6ページ目)

  • 取材・文/井上崇宏 取材・構成/市川光治(光スタジオ)

棚橋 たしかに、人の名前を一生懸命覚えるようにするというのは昔から習慣にしているんです。だから日本全国を回って、地方のプロモーターさんやスポンサー様に会った時はちゃんと名前で呼ぶということはずっとやっています。

藤波 そりゃ、入ってすぐに棚橋くんから名前で呼ばれたら、新入社員の子もうれしいよね。

【これからの新日本プロレス】

── 藤波さんは社長を降りられた時、やっぱり安堵の気持ちがありましたか?

藤波 安堵というか、そこもまた複雑だったね。オレまでの時代の新日本は、社長に就く、降りる流れというのが真っ当な状態ではなかったから。あたかも本人の落ち度、失敗だということで社長が変わるという。オーナーだった猪木さんの風向き次第というのか、猪木さんの思いのままだったね。あの頃、猪木さんは格闘技のほうにちょっと執心した部分もあったし、新日本プロレスに自分の居場所がないというのも正直あったね。オーナーなんだからドンと構えてくれたらいいんだけど、やっぱり選手あがりだからオーナーになりきってないんだよね。だから、どうしても現場に降りてきたがるんだけど、現場は長州が監督としてやっていたから、現場以外のところに口を出したくなっていた。

棚橋 新日本の歴史のなかでも、藤波さんが社長をやられていた頃が一番大変だったのではと思います。

藤波 坂口さんが社長だった時は猪木さんもまだ現役だったから、経営は坂口さんに任せて、きちんと新日本プロレスという組織をつくったよね。オレが社長だった5年間は乱れに乱れたから。

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