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日本ボクシング世界王者列伝:大橋秀行 『天才』の肩書きを凌駕する努力で残した拳の足跡と経営者としての手腕 (2ページ目)

  • 宮崎正博●文 text by Miyazaki Masahiro

【自分が150年にひとりなら、尚弥は1万年にひとり】

1990年2月、崔を9回KOで下し世界王座を獲得し、日本人の世界戦連敗記録も止めた photo by Kyodo News1990年2月、崔を9回KOで下し世界王座を獲得し、日本人の世界戦連敗記録も止めた photo by Kyodo News

「試合の翌日はね、電車のホームに人が押し寄せてきて、乗りたくても乗れなかったんです」

 以前の取材で、世界王者を実感した瞬間として、そんな出来事を振り返っていた大橋だが、栄光の日までの道のりは険しかった。

 ボクシングに魅せられたのは中学生の時。その後にプロボクサーになった兄・克行(元バンタム級日本ランカー)の影響もあったのだろう。地元のプロジムに通った。高校はかつてボクシングの名門だった横浜高校に進む。

 すぐにハイセンスは開花する。2年時にはインターハイ優勝。さらに専修大学でオリンピックを目指したが、日本代表を勝ち取れず、アマチュアを断念。そのまま老舗ヨネクラジムからプロに転じた。19歳の時だった。

 キャッチフレーズは『150年にひとりの天才』。具志堅用高が『100年にひとり』だから、それ以上というわけだ。

「ウソだよ、ウソ。僕が150年にひとりのわけがない。だったら、尚弥は1万年にひとりになっちゃう」

 今でも真顔で否定する大橋には、それまでの自分の努力を「天才」のひと言で片づけられたくはないという思いもあったのかもしれない。

 高校時代、学校での練習の後、プロのジムで再び鍛えた。可能な限り、ほかの選手の試合を見て、専門誌や技術誌などを読みあさった。横浜高校のボクシング部監督だった海藤晃は「大橋くんは勉強家で読書家だった」と証言していたもの。ただし、並み外れて才能があったのも間違いない。カウンターパンチの最善のタイミングは、秒の単位をさらに切り刻んだ瞬間にしか存在しない。

 そして、腕相撲が強かった。最軽量級ミニマム級の痩せっぽちでも、そんじょそこらの相手に負けたことはないとも聞いた。天才という評価に甘んじて遊んだつもりはない。自分の才能の在処をきちんと見きわめ、何をすべきかを見きわめたから、世界の頂点にまで立てたと、そういう自負が『150年にひとり』全否定の所以にあったのだろう。

 しかし、プロ入り後は天才型だからこその育成方針がとられる。初めての世界挑戦はプロ22カ月、7戦目だった。対戦するチャンピオンは前出の張正九。しかも、場所は敵地・韓国。結果は5ラウンドTKO負け。あまりにも無謀ではなかったか。

「みんな、そう言いましたよね。でも、チャンスがあったら、やらなきゃいけない。でなけりゃ、プロである意味がない」

 早すぎたから負けたとか、手痛い黒星があったから成長できなかったとか、そういうものは結果論にすぎない、と。そのことを大橋は、自身で証しを立てた。張との再戦は7度ものダウンを喫して再びTKOで敗れたが、2度倒された3ラウンド、きれいな右パンチをヒットして韓国の名チャンピオンをダウン寸前に追い詰めた。その後も好打を浴びせ、敗れてもなお、まだ成長過程にあることを、ファンに知らしめた。そして、栄光の世界王座奪取へと道をつなげた。

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