ビューティー・ペアは全女のリングを歌でも盛り上げた 元東スポの柴田惣一が明かす不仲説の真相 (2ページ目)

  • 大楽聡詞●取材・文 text by Dairaku Satoshi

【ペア結成から約3年後に解散・引退】

――当時のふたりの人気はいかがでしたか?

柴田:人気はジャッキーのほうが高かったんじゃないかと。会社としては「宝塚歌劇団のように」したいという戦略が大当たりで、ジャッキーが"男役"でマキが"女役"でした。ジャッキーに憧れて女子プロレスラーになった、という若い選手も多かったですよ。ボーイッシュというか、ちょっと影のあるクールな感じが格好よかった。

 ただ、さっきも言いましたが『かけめぐる青春』はすぐには売れなくて、本人たちが会場で客席を回って手売りしていました。少しずつテレビの歌番組にビューティー・ペアが出演するようになってジワジワと売れ始め、徐々に女の子のファンが増えてきた。マッハ文朱がスターだった時期も会場には女の子が増えたけど、ビューティー・ペアでファン層が一気に若い女性に入れ替わりましたね。

――マッハさんも歌手デビューしましたよね。

柴田:もともと、マッハは13歳で『スター誕生!』に出場して、同大会では山口百恵と一緒だったんですよ。でもマッハはスカウトされなかったから、のちに「山口百恵に敗れたマッハ」と呼ばれていましたね。

 プロレスラーになった後の1975年3月に発売した、マッハの『花を咲かそう』は約40万枚の大ヒット。それが売れたから、全女を創設した松永兄弟としては"二匹目のドジョウ"を狙ってビューティー・ペアもレコードデビューさせたんです。

――人気を誇ったビューティー・ペアですが、1979年1月の後楽園ホールで、ペアの解散と引退をかけて直接対決することになりました。

柴田:一説では、マキがアイディアを出したとも言われていますね。ただ、僕としては、松永兄弟が「ビューティー・ペアの人気もピークを過ぎた。代わりになるレスラーを育てなければいけない」と考えて「マキ上田、引退」という展開に持っていったと思っています。

――『極悪女王』でも、そのように描かれていましたね。

柴田:マキ本人も、そういう風に話しています。すでにジャッキーも松永兄弟も他界していますから確かめられないですが......。最後の直接対決はジャッキーが勝って、マキは引退しました。

――マキさんは引退後、スーパー戦隊ヒーロー『バトルフィーバーJ』に悪役・サロメ役で出演。現在は飲食関係の仕事をしていますね。

柴田:ファンの方と結婚して、浅草で釜めし屋をやっていますね。幸せそうでよかったです。

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