ビューティー・ペアは全女のリングを歌でも盛り上げた 元東スポの柴田惣一が明かす不仲説の真相 (3ページ目)

  • 大楽聡詞●取材・文 text by Dairaku Satoshi

【解散後のジャガーと、全女にもたらした影響】

――1981年2月、WWWA世界シングル王者だったジャッキーさんは、ジャガー横田(当時:横田利美)さんに敗れて王座から転落し、同年5月に全女を引退。その後はスポーツジムやブティックを経営していましたが、1986年8月、秋元康さんがアドバイザーとなった「ジャパン女子プロレス」で現役復帰しました。

柴田:最初からジャパン女子はアイドル路線でした。全女がクラッシュ・ギャルズで大成功したから"プロレス版おニャン子クラブ"をコンセプトとして後楽園ホールで旗揚げ。旗揚げ戦では、本田美奈子や少女隊がリング上で歌を歌い、アントニオ猪木さんも来場していた。ただ、長くは続かなかったですね。ジャッキーも1987年7月に神取忍(当時:神取しのぶ)と一騎打ちをしてギブアップ負けし、翌年3月に現役を引退しています。

――ジャパン女子は、1992年1月の熊本大会で解散しました。

柴田:ジャパン女子もいろいろと頑張りましたけど、全女には太刀打ちできなかったのかな......。実際、身体の作り方ひとつとっても、全女のノウハウはすごかったです。今でも全女のOBのなかには現役で戦い続けている人もいる。全女最後のWWWAシングル王者、高橋奈七永もそうですよね。他の団体の選手と体の鍛え方も違うし、体格もガッチリして基礎もできていますよ。

――人気選手に憧れて入門した人が多い分、活躍する選手が育つ確率も高くなりますからね。

柴田:そうですね。「ジャッキーになりたい」と全女に入ってきたなかでの代表的な選手は、ミミ萩原やジャガー横田、大森ゆかりでしょうか。

――ミミさんは1972年にアイドル活動を開始し、1978年に女子プロレスラーに転身しました。

柴田:1978年2月に横田戦でデビュー後、連戦連敗で87連敗。1981年までまったく芽が出なかったですね。ただ、ジャッキーとは仲がよかった。1981年2月にジャッキーが横田に敗れてWWWAシングル王座を奪われた日、ミミはヒールユニット「ブラック・ペア」の池下ユミを破ってオールパシフィック王座を奪取しました。

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