猪木とフレアーの禁断ツーショット、三沢光晴の結婚スクープ......東スポ時代の柴田惣一が見た昭和プロレスの裏側 (3ページ目)

  • 大楽聡詞●取材・文 text by Dairaku Satoshi

――それだけ、いろんな人と関係を築いて情報を得ていたんですね。

「リングの設営をするスタッフの人たちとも仲良くなって、時にはリングトラックに乗って一緒に移動し、彼らからも情報をもらいましたね。1988年の『三沢光晴の結婚』の記事は、スタッフの人がポロッと漏らした言葉がキッカケでした」

――三沢光晴さんの結婚は柴田さんのスクープだったんですね。

「東スポ入社して最初の一発でした。当時、三沢は二代目タイガーマスクとして全日本で活躍していましたが、結婚の質問をぶつけると、『なんで知ってるの?』とキョトンとしていて。馬場さんにも確認したんですが、『うーん』と頭を抱えて唸っていましたね(笑)」

【猪木に電話して「フレアーに会いに行きましょう!」】

――三沢さんは1988年5月の結婚を機に正体を明かしました。天龍源一郎さんが1982年、ジャンボ鶴田さんが1984年に結婚し、三沢さんが女性人気を支えていただけに全日本にとって痛手でしたね。

「そうですね。そして、それから間もない1990年2月、東京ドームで新日本と全日本の団体対抗戦という夢のカードが実現しました。もともとは新日本の単独開催だったのが、全日本の参戦が決まって一気にチケットが完売した大会です」

――メインが、アントニオ猪木&坂口征二組vs蝶野正洋&橋本真也組だった伝説の大会ですね。

「当初のメインイベントはグレート・ムタvsリック・フレアー戦だったのが、約1カ月前にフレアーが来日中止となり、チケットも売れ行きがよくなかったんです。

 それである時、全日本に取材に行くとスタッフの雰囲気がピリピリしていて。少し踏み込んで聞いてみると、『新日本の東京ドームに全日の選手を派遣する』という情報を掴んだんです。『スクープだ!』と思って、『新日の東京ドームに全日が参戦』とデスクに情報をあげると、『なんでおまえが知っているんだ。内密に動いているのに!』と、密かに団体とやりとりしていた上層部がびっくりしていましたよ(笑)」

――そういったスクープ的な記事は、今ではあまり見られなくなりましたね。

「今は団体によっては、レスラーに取材できる場所や時間が決まっていますからね。1980年代は巡業や道場でレスラーとワイワイ語りながら、ネタを見つけてニュースにする楽しさがありました。

 あの頃は年間200試合くらいあって、すべての試合を東スポは取材していた。地方大会は、試合当日の昼頃に現地に到着し、選手と同じか周辺の宿を取ってお昼を一緒に食べる。夜は試合を取材して記事を書いて東京に送るので、遅れて飲み会の席に合流することが多かったです」

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