【国際プロレス伝・最終回】夢は続く。アニマル浜口「国際魂」の叫び (2ページ目)
試合は東京・墨田区にあった日大講堂で行なわれましたが、同じ日、隅田川を挟んだ台東区にあった蔵前国技館で日本プロレスのジャイアント馬場さんとクラッシャー・リソワスキーのインターナショナル・ヘビー級タイトルマッチがありました。当時、「隅田川対決」なんて言われたりしてね。
国際プロレスとして......あのときはTBSプロレスですか、絶対に負けられない一戦。是が非でも勝って、草津さんをエースにして、日本プロレスにひと泡ふかせてやりたいところ。最大のチャンスだったわけですよ。
僕はその翌年の1969年に入団して、すぐに草津さんの付け人にさせていただいたので近くでよく見ていましたが、草津さんは他の誰よりもスター性がありました。タッパ(身長)があって、ラグビーで鍛えられた惚れ惚れするような強靭な肉体、スピードもありましたからね。
ところが、ルー・テーズさんが勝って、草津さんが負けてしまった。それも、バックドロップで失神KO負け。団体の繁栄・栄光へのレールが敷かれ、「さぁ、出発!」というところでコケてしまった。あそこで、もし草津さんが勝っていたら、当然、草津さんはみんなから認められて、押しも押されもしないエースになっていたでしょうし、国際プロレスはうまく旅立てた。そうなれば、その後の歴史も変わっていたでしょうけど......。
最後の3つ目は、「もしも、『四天王』と呼ばれたストロング小林さん、サンダー杉山さん、グレート草津さん、ラッシャー木村さんが最後まで力を合わせ、がっちりとスクラムを組んで国際プロレスという船を進めていったら?」。
1966年に国際プロレスが旗揚げしましたが、杉山さんが1972年に全日本プロレスへと移籍され、小林さんも1974年に退団されてフリーになられた。草津さんは最後までいましたが、1980年にケガされてからはリングに上がれず。1981年8月9日、北海道・羅臼(らうす)での最後の大会に出場したのは、四天王のなかでは木村さんだけ......。僕もあのときはケガをして、長期離脱中でした。
2 / 5