【国際プロレス伝】「チェーン・デスマッチの鬼」がリングから消えた日 (2ページ目)
1970年代、グレート草津は紛れもなく、国際プロレスのエースのひとりだった。
ところが1980年7月9日、地元・熊本での大会で行なわれたグレート草津、ラッシャー木村、大木金太郎vs.ジプシー・ジョー、ランディ・タイラー、ロッキー・ブリューワーの6人タッグマッチで、試合中にリング下の板が割れて隙間ができ、草津はそこに落ちて右足首を骨折。長期欠場することになった。
その後、草津はケガが癒えた後もリングに戻ることはなく、国際プロレスの幹部や現場責任者として会社を支えていくことになる。だが、国際プロレスは1981年8月9日に活動を停止し、9月30日に解散。草津の最後の役職は営業本部長だった。
「吉原(功/よしはら・いさお)社長を支えて、草津さんも苦労されたんでしょうね。国際プロレスが解散する前、僕は長期欠場中だったので詳しいことはわかりませんが......。僕も草津さんもお互い現場にいれば、その後は違った話になったかもしれないですし」
国際プロレス崩壊後、草津は静岡県三島市にある湯沸かし器製造会社に転職した。そして、天理高校ラグビー部員として花園でも活躍した息子・賢治は日本大学に進学後、空手の正道会館に入門。その後、アンディ・フグ率いる「チーム・アンディ」の一員として、2000年には父親のリングネームを引き継ぎ「グレート草津」としてK-1デビューを果たす。父・正武も試合会場などでインタビューを受け、テレビや新聞、雑誌などに登場することもあった。
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