石井優希「どこをどう見てそう思われるんですか?」初めて中田久美監督に言い返した日 日本代表時の経験などバレー人生を振り返る (3ページ目)
【少しずつ大きくなった代表への思い】
そんなプレッシャーのなかでも折れることなく努力を続けていると翌年、日本代表に初招集された。
「2011年に初代表で呼んでいただいて、最初は一緒に合宿しているメンバーを見ただけで緊張感がありました。全然チームに馴染めなくて、プレーも全然追いつかなくて、日々泣いていましたね。実際に初の公式戦であるモントルー大会(モントルーバレーマスターズ)でも出場機会は多くなく、監督の眞鍋(政義)さんがリリーフサーバーやスタメンで起用してくださった日もあったんですけど、結果が残せず、自分の精神面の弱さと技術の足りなさを痛感しました」
結局、石井は大会の途中にケガで離脱することになったが、「たとえケガがなくてもレベルが違いすぎて、落とされていただろう」という。
「翌年ロンドンオリンピックで銅メダルを獲得された選手たちの姿を見ると、この方たちと一緒にちょっとはプレーしていたんだなと思ったら、やっぱりオリンピックに出たいという気持ちが強くなりました。それまでは『絶対に代表に行きたい』とか『オリンピックに出たい』と思ったことはそんなになかったんですが、出場した選手とのつながりとか、少しの経験からどんどん自分の目指す目標が大きくなっていったと思います」
その思いを叶えるように2013年以降、石井は代表に選ばれ続け、リオ大会、東京大会と2回のオリンピックに出場した。しかし、スタメンには定着できず、役割としてはチームの流れが悪くなった時に、途中出場で流れを変えることが多かった。
「リオオリンピックのメンバー12人に古賀紗理那が入らなくて自分が選ばれた時は、うれしさもありつつとまどいと、自分が頑張らなきゃいけないとあらためて気が引き締まりました。決勝ラウンド1回戦敗退なので、いい結果ではないですし、私自身もパスが崩れて足を引っ張ってしまった。実際に現地で眞鍋さんに呼ばれて説教も食らいました」
大会期間中に監督に呼ばれて説教とは......。どんなことを言われたのだろうか。
「私を含めて3人ぐらいが呼ばれて、『お前たちのせいで負けている、でも選んだのは俺、他のコーチたちからは他の選手のほうがいいという声もあったけど、最終的に選んだのは俺だから、頑張ってくれ。期待している』と喝を入れられました」
石井はその言葉に少しショックを受けたが、逆に奮起するきっかけになったという。「自分のために頑張ろう」とスイッチを切り替えると、不思議とのびのびプレーできて、最終戦はアメリカ戦で負けたものの、食い下がることができた。
「ただ、自分でスイッチを入れられなかったことは悔しくて、次の東京オリンピックは自分が(チームを)引っ張るんだと、リオ大会を終えました」
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