元日本代表・齋藤真由美が辿った波乱のバレー人生。大人への不信、引きこもり、事故での大ケガに「まったく先が見えなかった」 (3ページ目)

  • 中西美雁●取材・文 text by Nakanishi Mikari
  • 松永光希●撮影 photo by Matsunaga Koki

【リハビリから復帰間近にまさかの事故】

――中退をしたあとの1986年11月には、イトーヨーカドーに入社することになります。どういった経緯があったんですか?

「中退の噂が広がり、『バレーの楽しさを知る前にやめてしまうのはもったいないから、一度うちのチームに顔を出してみたら?』と声をかけてくれたのがイトーヨーカドーなんです。当時の前田健監督、そのお父さんも、私が通っていた高校で指導した経験があったからかもしれません。それで、『やることもないし、練習を見に行くだけならいいか』と。

 そこで"実業団"というものがあること、給料をもらいながらプレーできることを知りました。両親が幼い頃に離婚して、母親に育てられて決して裕福な家庭とは言えませんでしたから、『なんとか自分も支えたい』と、イトーヨーカドーに飛び込んだ形ですね」

現在は食品ブランド「株式会社MAX8」の代表を務める photo by Matsunaga Koki現在は食品ブランド「株式会社MAX8」の代表を務める photo by Matsunaga Kokiこの記事に関連する写真を見る――翌年2月にはデビューを果たしますが、当時の状況はいかがでしたか?

「練習が厳しいことには変わりありませんでしたし、企業間の敵対意識も強かったですから、『すべてのチームが敵だ』という思いでやっていましたね。プレースタイルも完全に"超攻撃型"で、とにかく相手をねじ伏せることを考えていました。心のモヤモヤの部分を、すべてバレーで放出していたわけですから、大きなパワーにもなりますよね(笑)。ある意味、厳しい環境への反抗心をプレーに還元できたのはよかったのかもしれません。

 でも、本来であれば高校生の年齢である私がレギュラーになると、先輩たちがスタメンから外れるわけですから風当たりが冷たくなるんですよ。性格も"心を開かないどら猫"のようになっていったというか、『誰に何を言われても、プレーで黙らせられるくらい強くならないといけない』と思っていました。ものすごく生意気な後輩だっただろうな、と自分でも思います」

――そんななか、1988年には17歳で、ソウル五輪の第1次候補選手に選ばれましたね。

「私は技術がなく、がむしゃらに打つだけの選手だったので、全日本の練習や試合も掛け持ちするうちにどんどん体を酷使して......19歳の頃には右肩が上がらず、クシで髪をとかすこともできないくらいになっていました。それで約2年間はコートに立てず、必死でリハビリを続けて、ようやく動けるようになった時に......今度は交通事故に巻き込まれてしまったんです。

 トラックのドライバーの飲酒運転と居眠りが原因でした。たまたま帰省で実家に帰り、食事に出かけた帰りがけ、家族が乗っている車に正面衝突されて。運転していた兄、助手席に乗っていた私も大ケガを負い、後部座席に乗っていた母は両肩を脱臼して身体障害者となりました。

 私も脱臼や額を13針縫うなどしましたが、特にひどかったのは両ひざ。手術をしたものの、『このケガをしてまたプレーができるのか。たとえコートに立てても、自分を奮い立たす力が出るのか』と、まったく先が見えませんでした」

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