大友愛が明かす全日本離脱の真相。面談でも監督に「あなたとはやれません」【2021人気記事】 (4ページ目)

  • 中西美雁●取材・文 text by Nakanishi Mikari

――2004年のアテネ五輪にも出場しましたが、初めてのオリンピックの舞台はいかがでしたか?

「それまで日本で開催されていた大きな大会は、会場の盛り上がりもすごくて、私も気持ちが熱くなってくる感じだったんですが......アテネ五輪は日本代表の試合を見に来る人が少なくて、『え、オリンピックなのにこんなに寂しいの?』と思った記憶があります。

 日本と海外の強豪チームのモチベーションの差も痛感しました。海外の選手たちの目には、『絶対に、何としてもメダルを取るんだ』という力が宿っていました。私たちはシドニー五輪の出場を逃していたので、出場権を取った時点で少し安心してしまったのかもしれません。オリンピックに出場することへの気持ちやプレーの準備はトモさんがたくさん話をしてくれたんですが......。それを生かし切れず、反省しかないもったいないオリンピックでした」

――アテネ五輪が終わってNECに戻り、2005年のワールドグランプリでの活躍から一気に注目度が上がり、同年には写真集やDVDも出しましたね。しかし2005-06シーズンの途中で引退。ファンだけでなく、関係者にも衝撃が走ったと思います。

「これはずっと弁明させてもらっているんですけど、写真集やDVDは『絶対に嫌だ!』と言っていたんです。それでも、チームや会社に説得されて仕方なく、といった感じでした。あの頃はアイドルのように扱われて、過剰に注目されていると感じていました」

――確かに、当時は女子バレーが再び盛り上がり、大友さんの人気もすごかったですね。

「応援してもらえることはもちろん嬉しかったです。ただ、どこに行っても、買い物するだけでも写真を撮られたりインターネットに書かれたりすることが多くなり、疲れ果ててしまいました。それまで私は、バレーに関して父に相談したことがなかったんですが、(2005-06シーズンの)リーグの前にあったアジア選手権の大会期間中に国際電話をして、『やめたい』と伝えました。

 バレーが大好きなのに、バレーじゃないところで注目されていることが大きなストレスで、プレーも楽しめなくなっていましたね。リーグの最中で申し訳ないとも思いましたが、引退することを決めました」

(中編:シングルマザー時に悩んだバレーと子育てのバランス>>)

■大友愛(おおとも・あい)
1982年3月24日生まれ。宮城県仙台市出身。中学校からバレーをはじめ、仙台育英学園3年生の時に世界ユース選手権優勝を経験。2000年にNECレッドロケッツに入団し、日本代表にも選出される。2006年に一度は引退するも2008年に復帰し、2012年のロンドン五輪で銅メダル獲得に貢献。2013年に引退し、現在は4児の母。

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