五輪出場を逃し、猛バッシング。引退を決意した竹下佳江を救った中田久美からの電話 (2ページ目)
初招集された1997年の時は控えのセッター。そこから間が空いて再び日の丸のユニフォームに袖を通した2000年は正セッターに抜擢され、シドニー五輪世界最終予選を戦った。だが、そこで竹下の運命が大きく変わる。
残り2戦で、勝てば五輪出場が決まる運命のクロアチア戦。日本は2セットを先取したが、第3セットを奪い返されると、第4セットは21-17と終盤で大きくリードしたところから逆転を許す。そのまま最終セットも失って試合も逆転負けを喫した。
予選最終日、残っていた出場権を獲得したのはクロアチアだった。日本女子バレーが1964年の東京五輪から続けていた出場記録が途絶えた。
竹下は、これまでもその予選についてさんざん聞かれ、答えるのも嫌になっていた時もあるそうだが、「聞かれたら答えますよ」と穏やかに微笑んだ。
「最終予選という舞台を経験するのも、代表のレギュラーセッターとしてトスを上げるのも初めてでした。ただ、リーグ戦で優勝していたこともあって、『チームでやっていた速いバレーを展開すれば、代表でも形になっていくんだろうな』と考えていました。でも、うまくいかなかった。やっぱりそこは、経験値の低さだったんだと思います」
竹下の"売り"は速いトスを生かしたセンター攻撃だったが、クロアチア戦の終盤はレフトの大懸郁久美に上げ続け、それが連続でブロックされる結果になった。
「『接戦になったら主砲にトスを上げる』というのは基本ですが、自分の特徴は速いトスで、センターとライトを使ってナンボだった。それなのに、センターの杉山を使うことが怖くて......。気持ちが"守り"に入っていたんでしょうね」
五輪出場権を逃した批判は、159cmのセッターに集中する。「そんな背の低いセッターを使うからだ!」という声は、竹下本人の耳にも数多く入ってきた。それまで好意的に接してくれていたはずの周囲の人間、バレー関係者の中にも、くるりと手のひらを返した者がいたという。
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