テニス全米ジュニア王者だった柴原瑛菜が、日本代表を切望する理由 (2ページ目)

  • 内田暁●取材・文 text by Uchida Akatsuki
  • photo by AFLO

 これから先もアメリカの旗の下でプレーするのか、あるいは日本国籍を選ぶのか?

 USオープン・ジュニアを制した3年前にそう聞いた時にも、彼女は「ものすごく、いろいろと考えています」と、少し困ったような笑みをこぼしていた。

 東京に住む祖父母がロサンゼルスを訪れたり、日本でも地方の試合に足を運ぶ機会は、最近めっきり減った。

「その祖父母に、東京オリンピックで日本人としてプレーする姿を見せられることができれば......」

 そのような想いは、年々膨らんでいった。

 ただ、10年以上強化選手としてアメリカのサポートを受けてきた彼女にとって、国の所属を変えるのは簡単なことではない。とくに、日本代表として国別対抗戦やオリンピックなどに出場するには、まだいくつかの障壁が立ちはだかる。

 それでも、昨夏UCLAを休学してプロに転向した彼女は、22歳の誕生日を7カ月後に控えた今年、日本国籍選択を決意し、国際大会出場時の国表記を「日本」へと変更する。

 祖父母に、東京で晴れ姿を見せたい――。それが最大の夢なのだと、彼女はまっすぐに言った。

 プレーヤーとしての柴原の武器は、憧れのサンプラスが得意としたサーブ&ボレーなどの攻撃テニス。女子選手にしては珍しい高く跳ねるキックサーブも、彼女が自信を持つ貴重な手札だ。

 現時点では、それらの長所は主にダブルスで発揮されており、プロ転向後のこの約1年で、ランキングを1000位台から70位台に急上昇させてきた。

 そのなかでも大きな転機となったのが、今年7月のサンノゼ大会で、青山修子と組んで準優勝したこと。ダブルスのスペシャリストであるベテランとコート上で多くの時間を過ごしたことにより、「私のレベルも上がった」と確信できた。とくに成長を感じられたのが、ネット際での動きだ。

「青山さんの動きを見て、イメージを作り、それをマネしたら、私も前よりネット際で速く動けるようになった」

 青山のプレーを見ることで、自分で築いていた限界値をひとつ壊し、文字どおりプレーの幅を広げることができたという。

2 / 3

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る