テニス全米ジュニア王者だった柴原瑛菜が、日本代表を切望する理由
先月、ニューヨークで開催されたテニスのUSオープンで、見慣れぬ日本人選手の名がファンやメディアの間で話題にのぼった。
『Ena Shibahara』
多くの日本人が彼女を知らなかったのも無理からぬことで、彼女の名の横に『JPN』と表記されるようになったのは今年の7月から。グランドスラムに日本の所属として出場するのは、今回のUSオープンが初めてだった。
アメリカ国内ではジュニア時代から将来を嘱望されていた柴原瑛菜 先に「日本の所属として」と記したのは、彼女がアメリカ人としては、すでにUSオープンに出場した実績があるからだ。それも今から3年前、まだ彼女が18歳の時のこと。全米国内選手権の18歳以下のダブルスの部で優勝し、自力で獲得した出場権だった。
さらには、柴原はUSオープン・ジュニア部門にも出場し、こちらでも優勝トロフィーを掴み取る。そのタイトルを手土産に、テニスの名門でもあるカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)にスポーツ特待生として進学。これらの足跡からもわかるように、彼女はアメリカ国内でもジュニア時代から常に同世代のトップグループにいた。
柴原瑛菜は1998年2月12日生まれの21歳。両親は日本人で、生まれ育ちは米国カリフォルニア州。年中晴天に恵まれ、公営コートも町のそこら中にあるという環境に導かれて、兄も含めた一家揃って幼少期からテニスに親しむようになった。
8歳にして全米テニス協会(USTA)の強化選手に選ばれた彼女のキャリアには、生まれ育ったカリフォルニアの地が、常に大きな影響を及ぼしてきた。13歳まで師事したのは、シングルス最高ランキング14位、ダブルス6位のキンバリー・ポー。彼女の実家にほど近い、ロサンゼルス出身の名プレーヤーである。
幼い頃から憧れた選手は、同郷の英雄であるピート・サンプラス。そのサンプラスを「ロールモデル(お手本)」としてUCLAに進学した彼女を、テニス部監督として指導したのは、ピート・サンプラスの姉のステラ・サンプラスだった。
そのように、カリフォルニアの土壌で育った柴原ではあるが、両親の故郷であり、祖父母が暮らす日本に対する郷愁の念も、常に心にあったという。現在は日米双方の国籍を持つ柴原だが、日本国籍を選ぶのであれば、原則的には22歳までに決断をくださなくてはならないからだ。
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