ラグビー日本代表2015「陰の立役者」廣瀬俊朗はキャプテンを外されてピッチに立てなくてもサポートし続けた (3ページ目)
【慶應義塾大・伝説のキャプテン】
4年間のすべてを日本代表に注ぎ、心からチームの成功を願った廣瀬俊朗という男は、どんなラグビー人生を送ってきたのか。
生まれはラグビーの盛んな大阪。5歳から吹田ラグビースクールで楕円球を追いはじめ、中学を卒業するまでスクールでプレーを続けた。ただ、ラグビー競技一辺倒ではなく勉強との両立を貫き、大阪の進学校・北野高に合格した。
高校で花園出場は果たせなかった。しかし、個の能力の高さが評価されて高校日本代表に選出。フランス遠征では主将を務めるなど、その頃からキャプテンシーは折り紙つきだったという。
高校卒業後は慶應義塾大に進学。理工学部に在籍し、「文武両道」を貫いた。大学では主にSOで、時にはFBとしてもプレーしている。慶應義塾大でもキャプテンを任され、優勝に届かぬとも最後までチームを引っ張った。のちに後輩たちからは「伝説のキャプテン」と称される。
2004年、東芝府中(現・東芝ブレイブルーパス東京)に入部。翌年に慣れ親しんだSOからWTBに転向すると、一気に能力が開花した。SOで培ったパス、ラン、キックの総合的なスキルと、対人の強さやアウトサイドの展開力が合わさり、トライも奪えるWTB像を確立した。
そして2007年4月、ジョン・カーワンHC時代に初めて日本代表に選出され、香港戦で初キャップを得た。ただ、その後は代表から落選。本人は「おごりがあったのかも」と振り返る。
所属する東芝ではBK陣の主軸としてトップリーグ3連覇に貢献。しかし、2007年度はキャプテンを任されたものの3位に終わって連覇を逃し、ここでも挫折を味わう。
「学生時代は『自分が一番うまい』というバックグラウンドがあって、みんなに意見をしていました。しかし、社会人では自分よりうまい選手や年上の方がいるので、学生時代とは違う。自分らしさを追求しながら、周りの人を尊敬し、みんなの意見を聞くところが身につきました」
社会人として初めてのキャプテンは、大いに悩み、苦しんだ。ただ、その経験が糧(かて)となり、「自然体で接する」という廣瀬のキャプテンシーの姿勢が形作られた。それがのちに、日本代表でも生かされたのは間違いない。
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