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初のプロラグビー選手・村田亙が作った「海外移籍」の道 日本人でも世界に通用することを証明した (3ページ目)

  • 斉藤健仁●取材・文 text by Saito Kenji

【地元フランスのメディアも認めた】

 初めて出場した1991年ワールドカップのあと、村田のもとには海外チームからオファーがあった。それをきっかけに、海外でのプレーを心のどこかで夢見るようになっていったという。

 3度目の出場となった1999年ワールドカップでは、外国籍選手の元オールブラックスSHグレアム・バショップにポジションを奪われる悔しい経験をした。だが、自分から積極的に仕掛けるスタイルは日本より海外の評価が高かったことも、新天地に旅立つ背中を後押しした。

 当初、村田のもとにはイタリアのクラブからもオファーがあった。しかし、村田が契約したプロクラブは、当時フランス2部に属していたバイヨンヌ。世界的にもラグビーが特に盛んと知られている地域だった。

 そんな土地柄のクラブにおいて、村田は「9番」を背負った。フランスにおける9番は「監督になる選手も多く、ゲームを支配するのでキャプテンも多い」特別なポジションだ。

 周囲の期待を胸に、村田は開幕戦で先発出場を果たす。日本人初のプロ選手、誕生の瞬間である。

 すると村田はデビュー戦で、いきなりトライを挙げて勝利に貢献。一気にチームメイトや地元ファンからの信頼を得た。ベテランながらスピードを武器に自ら仕掛け、同時にパスも展開するオールラウンダーとしてバイヨンヌで躍動した。

 村田の海外挑戦は、2シーズンで幕を下ろす。再び日本代表に招集されたことで、地元ファンに惜しまれつつもフランスに別れを告げて、ヤマハ発動機(現・静岡ブルーレヴズ)に入団することにしたからだ。

 海外に残ってプレーする姿をまだ見てみたい──と思ったファンは、日本でも多かったはずだ。だが、フランス・ラグビー専門紙が選ぶマン・オブ・ザ・マッチに17回選ばれ、カップ戦も含めて40試合に出場し7トライを挙げるなど、村田は大きな爪痕をフランスに残した。

 日本に戻ったあと、村田はその豊富な経験を生かしてヤマハ発動機の関西リーグ初制覇、日本選手権ベスト4などに貢献。37歳で日本代表最年長キャップ(当時)獲得、40歳でトップリーグ最年長出場記録(当時)更新など、最後まで記憶と記録に残る選手として活躍し、2008年にスパイクを脱いだ。

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