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初のプロラグビー選手・村田亙が作った「海外移籍」の道 日本人でも世界に通用することを証明した (2ページ目)

  • 斉藤健仁●取材・文 text by Saito Kenji

【退路を絶ってフランスリーグに挑戦】

 1968年生まれ、福岡市出身。4歳上の兄の影響もあり、小学校1年から地元の草ヶ江ヤングラガーズで競技を始めた。当初はFBだったが、本人いわく「身長が伸びなかった」ため、中学校からSHに転向。東福岡高校ではSOも経験したが、2年時から再びSHとなり「花園」全国高校ラグビー大会に出場した。

 専修大学ではキャプテンとして関東リーグ戦で優勝を経験し、大学卒業後の1990年に東芝府中(現・東芝ブレイブルーパス東京)へ入団。翌年には早々に日本代表初キャップを獲得し、第2回ワールドカップのメンバーにも選ばれた。

 村田が海外挑戦を決断したのは1999年12月。平尾誠二監督の率いる日本代表で3度目のワールドカップに出場し、次のステージを模索するなかで、村田は誰も踏み込まなかった新たな道を選んだ。

 きっかけは1995年、アマチュア主義だったラグビーのオープン化だ。世界のラグビーがついに「プロ化」へと舵を切ったのである。

 東芝府中時代の村田は、日本屈指のスピードでライバルチームを圧倒した。相手の反則からクイックリスタートで仕掛ける「PからGO」の戦術を駆使し、1996年度から日本選手権3連覇を達成する。

「ボールを持ったら、僕がいく」

 積極的な姿勢で常にチームの先頭に立ち、国内SHの第一人者として君臨していた。

 しかし、村田の胸には去来するものがあった。

「日本ラグビー界でやりきった」

 そう感じた村田は、31歳というベテランながら、海外に行くことを決断する。

 海外クラブへの移籍は、もちろん何事も初めてのこと。チームや同僚に迷惑をかけるという思いもあり、村田は東芝をすっぱりと退社する。

「収入が減っても、一度の人生。今しかできないことだし、このチャンスを逃すと一生後悔する」

 自ら退路を断って、プロ選手としてフランスリーグへ挑戦することを決めた。

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