ミスターラグビー平尾誠二は「僕らの太陽」だった 学生時代の悔しさを胸に10年後「神戸製鋼V7」を達成 (3ページ目)
【1995年の屈辱を、きっと...】
現役引退後、平尾は神戸製鋼のヘッドコーチを経て、1997年に日本代表の監督に就任する。ただ、スパイクを脱いで指揮官になっても、平尾は創造性を発揮し続けた。
そのひとつが「平尾プロジェクト」の発足。現役終盤〜強化委員長時代から動き出し、他競技の優秀な選手にも目を配り、新たな若手発掘を目的としたアイデアだ。
結果的に、プロジェクトが大成功を収めたとは言いがたい。しかし、競技人口が毎年減っている状況を苦慮し、日本ラグビーのために取った行動だったことは明白だ。
また、オールブラックス経験のあるSH(スクラムハーフ)グレアム・バショップやLO(ロック)/N0.8(ナンバーエイト)ジェイミー・ジョセフの日本代表入りを後押ししたのも、監督時代の平尾の功績だろう。1995年に世界のラグビーがプロ化に舵を切ったことを踏まえて、ルールに則って日本代表を強化しようと邁進した。
CTBアンドリュー・マコーミックを日本代表初の外国人キャプテンとして指名し、1998年にはアルゼンチン代表に勝利、さらに1999年にはサモア代表を下して「パシフィック・リム選手権」で優勝した。
1995年の屈辱を、きっと晴らしてくれるはず......。ファンの大きな期待を胸に、平尾ジャパンは1999年ワールドカップを迎えた。しかし、結果は3連敗で予選プール敗退となり、平尾監督は2000年11月に退任した。
その後も平尾は、神戸製鋼のGM兼総監督として7年ぶりに現場復帰し、クラブの強化に尽力。2003年のトップリーグ初年度には神戸製鋼の復活Vにも寄与する。そんな活躍を見て、平尾が再び日本代表のヘッドコーチに来るのでは......と、心のどこかで期待していた。
2009年に日本での2019年ラグビーワールドカップの開催が決まると、平尾は「過去にない、すばらしい大会にしなければいけない使命がある」と意気込み、組織委員会の理事・事務総長特別補佐に就任した。
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