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ミスターラグビー平尾誠二は「僕らの太陽」だった 学生時代の悔しさを胸に10年後「神戸製鋼V7」を達成 (2ページ目)

  • 斉藤健仁●取材・文 text by Saito Kenji

【10年後に成し遂げた快挙】

 同志社大に入学すると名将・岡仁詩の薫陶を受ける。紺グレーのジャージを身にまとい、主にCTB(センター)として出場して大学選手権3連覇を達成した。

 特に1984年度、当時史上初の3連覇が達成された大学選手権決勝は、オールドファンにとって忘れることはできない。慶應義塾大の起死回生のプレーがスローフォワードと判定されて、「幻のトライ」となった一戦である。

 そして慶應義塾大戦の9日後、同志社大は日本選手権で新日鐵釜石と対戦する。日本選手権7連覇のかかった新日鐵釜石に、当時学生最強と謳われた同志社大がどこまで戦えるのか、全国のラグビーファンが固唾をのんで見守った。

 結果は17-31。新日鐵釜石のV7を目の前で見ることになり、平尾はこの悔しさを胸に1986年、神戸製鋼に入社する。

 平尾が神戸製鋼のキャプテンに就任したのは入社3年目。その年の全国社会人リーグで、東芝府中(現・東芝ブレイブルーパス東京)を破って初優勝を果たすと、日本選手権でも大東文化大学を下して初優勝に輝いた。そして新日鐵釜石に敗れた10年後、平尾は神戸製鋼でV7を達成した。

 日本代表に初めて召集されたのは1982年。当時最年少(19歳4カ月)で選ばれた。桜のジャージーに袖を通し続けて計35キャップを獲得し、選手としてワールドカップに3度出場している。

 1989年5月28日、秩父宮ラグビー場でスコットランド代表を28-24で下した試合では、名将・宿澤広朗監督のチームをまとめるキャプテンとして出場。当時明治大のホープだったWTB吉田義人のトライを見事なパスで演出した。

 1991年10月14日、2回目の出場となったワールドカップのジンバブエ戦では、52-8の大勝を飾って日本代表のワールドカップ初勝利に貢献。平尾は「日本ラグビーにとって自信になった」と語り、歴史の1ページに大きな足跡を残した。

 その一方で、暗い影を落とす試合も目の当たりにしている。

 1995年6月4日、平尾にとって3度目のワールドカップのニュージーランド戦で17-145の大敗。ワールドカップ史上最多失点という屈辱を、平尾はピッチの外で味わうことになった。

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