林敏之が語るラグビーW杯大会。名選手揃いも「勝ち方を模索してた」

  • 松瀬 学●文 text Matsuse Manabu
  • 齋藤龍太郎●写真 photo by Saito Ryutaro

レジェンドたちのRWC回顧録③ 1987年大会 林 敏之(前編)

 もう32年も経つのか。でも、ダイマルさんこと、林敏之さんのラグビーにかける情熱は変わらない。今はNOP法人ヒーローズの会長を務め、世界の子どもたちへのラグビー普及に奔走している。自分がラグビーから授かった「恩」を次の世代につなぐ、いわば「恩送り」の活動に熱中する。

ラグビーのイベントが行なわれた日産スタジアムで話を聞かせてくれた林敏之ラグビーのイベントが行なわれた日産スタジアムで話を聞かせてくれた林敏之

「ラグビーを通し、沸き上がる感動をぜひ、体験してほしい」。心はラグビーのみに向かっている。昔のラグビー体験を思い出し、つい涙ぐむ時もある。ゴールデンウィーク直前、世界7カ国のちびっ子ラガーが参加した『こどもワールドフェスティバル2019』が開催されていた横浜の日産スタジアム。ラグビーワールドカップ(RWC)の決勝会場で、1987年の第1回RWC日本代表の思い出をじっくり語ってもらった。

 記念すべき第1回大会のキャプテンはもう、59歳となった。トレードマークのひげには少し白いものも交じる。昔懐かしのアマチュア時代。年間百数十日ぐらい合宿する今とは違い、当時の代表合宿はせいぜい遠征前の1週間程度だった。「全然違ったね」と小さく笑った。

「日本代表はそのつど、チームをつくって、遠征して、終わったら"ばらけ"ていたよね。試合の意識を高めていこうといったゲームフィットネスとかの意識はないから。だって、みんな仕事があるから。遠征前はその分、残業をしないといけないみたいな感じだった」

 第1回大会は、KDD(現在のKDDI)がスポンサーとなり、ニュージーランドとオーストラリアで招待大会として開かれた。日本代表は1次グループ初戦のアメリカに18-21で競り負け、イングランドには7-60で大敗したが、最終戦の優勝候補、オーストラリア相手に23-42と健闘した。

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