女子バドミントン大堀彩が27歳にしてつかんだ初五輪 2023年アジア大会から大舞台へ上昇曲線を描き始めたワケ
初のオリンピック代表の座を手にした大堀彩 photo by 中村博之この記事に関連する写真を見る
バドミントン・大堀彩インタビュー 前編
幼い頃から目標にしていたオリンピック出場を、27歳にしてついに実現した大堀彩(トナミ運輸)。富岡高(福島)時代は1年時に出場した2012年世界ジュニア選手権3位、翌13年は同2位にアジアジュニア選手権優勝と結果を残していたが、シニアでは1歳上には17年世界選手権優勝の奥原希望(太陽ホールディングス)、1歳下に世界選手権2021年、22年連覇の山口茜(再春館製薬)がいる超ハイレベル世代のなかで、これまで五輪代表の座に届くことはなかった。
ようやく辿り着いた最高の舞台への道のりは、大堀にとってどのようなものだったのか。
【大きな転機となった昨年9月のアジア大会】
ーーパリ五輪代表選考レースを振り返ると、2023年9月下旬からのアジア大会でシングルス3位になったのがターニングポイントになったと思います。どういう気持ちで臨んだ試合でしたか。
「正直、アジア大会は自分自身もそんな期待していませんでした。『ここで絶対勝ってやる』と言えるほどの実績は五輪レース開始からの4カ月間はまったく出せなかったので自信を持って臨める要因は何もなかったからです。
ただ、団体戦初戦の台湾戦で山口茜ちゃんがケガをして、団体戦には不可欠なエースが突然いなくなったショックというか、不安がすごく大きくなったけど、準決勝の中国戦では第1シングルを任されることになりました。
それ以前の私は3番手か4番手で、ユーバー杯などの団体戦もずっと第3シングルで、第1シングルは一度も経験したことがなかったので本当に緊張しましたが、大きな責任感みたいなものが生まれてきました。茜ちゃんの代わりというのもあったけど、相手は1回も勝ったことない陳雨菲(チェン・ユーフェイ)選手(中国/当時世界ランキング3位)でしたし、『普通には終われない』という気持ちで臨みました。あの試合で大きく成長したかなと思います」
ーーそれまでは強い選手がふたりいるなか、「とことんやるのが私のバドミントン人生」という達観もあったところから、重責を担う立場になって意識も変わった。
「環境や立ち位置がその人を変えるというのはそのとおりで、あの試合は負けたけど(1―2)、自分のなかでも限界を突破した試合でした。試合後に初めて全身痙攣を起こして病院に救急車で運ばれましたけど、それまでは足をつったことすらなかったですから。そこまで自分ができるんだということがわかったし、限界をひとつ突破したことで体もその時の感覚をつかんで、メンタル的にもどういう気持ちで試合に臨むと成功するというのがわかって、負けはしたけど得るものは大きかった。そのおかげで、その後は少しずついい感覚を持ってプレーできました」
ーーそれまで、どこか制限をして使っていなかった筋肉まで使えたような感覚で、100%以上を出せたのですね。
「そういうものは、出そうと思って出せるものではないことをすごく感じました。いろいろな環境が整い、精神的にも充実した準備ができている時に限界を突破できるのかなと思います。
あの時、自分のなかでは絶対に勝ちたいという強い気持ちがありました。団体戦で『みんなのために自分が1ポイントを取れたら』という気持ちが本当に強かったですし、自分の心と第1シングルを任せてくれた皆さんからの信頼、そのすべてが重なってようやく自分の限界を突破できるものなのかなと思いました」
ーーその後の個人戦では準決勝で再び陳雨菲と対戦し、第1ゲームを先取しながら敗れた時、「もう少しサイドの端を狙えばよかったけど、怖くなって狙いきれなかった」と分析していました。そういう戦い方など、いろいろなこともわかったのですね。
「シンプルに言えば、バドミントンをより深いところまで考えられました。それまでは戦術的に何がダメだったのか、負けたあとにすぐに分析できることはあまりなかったけど、あの時は終わった瞬間に『ここがダメだった』と思うなど、いろいろなことを感じながら試合をすることができました。そのあたりも、あの団体戦のおかげで、不思議な力を発揮できたと思います」
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プロフィール
折山淑美 (おりやま・としみ)
スポーツジャーナリスト。1953年、長野県生まれ。1992年のバルセロナ大会から五輪取材を始め、夏季・冬季ともに多数の大会をリポートしている。フィギュアスケート取材は1994年リレハンメル五輪からスタートし、2010年代はシニアデビュー後の羽生結弦の歩みを丹念に追う。