【部活やろうぜ!】Bリーグ・篠山竜青の「基礎を築いてくれた場」 中高時代に得たものとは (2ページ目)
【「今の僕自身を語るうえで切っても切り離せないもの】
自身が考える風土のなか、北陸高から日本代表へと育っていった篠山(写真は2年時) photo by Kyodo News――北陸高のイメージは質実剛健なイメージですが、バスケットボールはかなり自由というか、選手自身が考えることで成長する風土があった印象です。だからこそ、篠山選手も元来の性格を出しつつ、前向きに取り組めた感じなのでしょうか。
篠山 そうですね。少しずつ自分を出して、あ、笑って許してもらえるんだなっていうところに気づいたからかもしれません。小中の先生たちは本当に真面目な先生たちで、もちろん今の自分に大きな影響を与えてくれたのですが、性格面では完全には弾けきれていなかったと思います。
津田(洋道)先生や久井先生は厳しかったですけど、基本的には、ほぼ野放し、というか特にポイントガードに対しては思いきってやりなさい、というスタンスでした。それこそ先輩の佐古(賢一)さん、五十嵐(圭)さん(現・新潟アルビレックスBB)、石崎(巧)さん、西村(文男)さん(現・千葉ジェッツ)は、それぞれ個性があり、それぞれの時代で日本代表のユニホームを身に纏う選手となったので、そういう世界観を生み出す風土が北陸にはあると思います。
練習では全国トップレベルの選手同士の競争を毎日繰り返し、何か自分の色とか、自分ってこういうガードなのかなみたいなのが少しずつ見えてくる。僕が1年生の時は3年生の西村さんにオールコートの1対1の相手をしていただいたりしましたけど、そういう風土が歴史のなかで続いて、伝統となってきたのが北陸高校なのではないかと思います。
――最後に。篠山選手にとって、部活とは?
篠山 もう、青春そのものですね。そして、今の自分の基礎を築いてくれた場でした。特に今は自分が父親になったので、子どもにはバスケとかプロとかに関係になく、部活動とかチームスポーツを通して何かを学んでほしいと思っています。学校の教室とはまた違う集団の中で学ぶこともたくさんあると思うので。
今回は高校のことを中心に話しましたが、中学の時も本当にいい先生に巡り合うことができて、すごく成長できた3年間でした。公立の中学校で、その先生が赴任してきたことで力を入れ出したチームで、僕らの代にはふたり、バスケ素人がいたんですよ。運動能力は高かったのですが、そのうちのひとりは最初の2年間はずっと部活に来なかった。ただ自分が最終学年になった時に、試合に出られるからと引っ張ってきて、マイカンドリル(ゴール近辺で行なう基本的なシュート練習)から始めて、試合に出られるレベルにまで成長した。全中には行けませんでしたけど、県大会優勝まで行ったのも、いい思い出です。
学生時代を振り返るとなったら、8割、9割が部活のことです。バスケットというスポーツの中で、バスケット以外の部分もすごくいろんなものを学ばしてもらった。その意味では、僕自身を語るうえで、「部活」という存在は、切っても切り離せないものです。
Profile
しのやま・りゅうせい/1988年7月20日生まれ、神奈川県出身。ポイントガード。横浜市立旭中(神奈川)−北陸高(福井)−日本大−東芝(JBL)−東芝神奈川(NBL)−川崎ブレイブサンダース(Bリーグ)。身長178cm、体重75kg。左利き。北陸高時代は1年時のウインターカップにベンチ入りし、2年時から主力として活躍。3年時にはインターハイ優勝、ウインターカップ準優勝の原動力となった。卒業後、日本大を経て、2011年に川崎ブレイブサンダースの前身である東芝ブレイブサンダースに加入。以降、同チームひと筋でプレーし、来季で15年目を迎える。これまで世代別の日本代表としても活躍。2016年から2019年はトップの日本代表としてプレーし、東京五輪出場権獲得に大きく貢献した。Bリーグを代表するエンターテイナーとして名を馳せ、オールスターゲームの代名詞的存在として、多くのファンを魅了している。今季は自身初のBリーグ・フリースロー成功率リーダー(91.7%)となった。
著者プロフィール
牧野 豊 (まきの・ゆたか)
1970年、東京・神田生まれ。上智大卒業後、ベースボール・マガジン社に入社。複数の専門誌に携わった後、「Jr.バスケットボール・マガジン」「スイミング・マガジン」「陸上競技マガジン」等5誌の編集長を歴任。NFLスーパーボウル、NBAファイナル、アジア大会、各競技の世界選手権のほか、2012年ロンドン、21年東京と夏季五輪2大会を現地取材。22年9月に退社し、現在はフリーランスのスポーツ専門編集者&ライターとして活動中。
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