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NBA伝説の名選手:ケビン・マクヘイル 1980年代のセルティックス王朝を支えたビッグマン

  • 青木 崇●文 text by Aoki Takashi

その長身と長い腕を生かして多彩なオフェンスを武器にしたマクヘイル photo by Getty Imagesその長身と長い腕を生かして多彩なオフェンスを武器にしたマクヘイル photo by Getty Images

NBAレジェンズ連載34:ケビン・マクヘイル

プロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。その輝きは、時を超えても色褪せることはない。世界中の人々の記憶に残るケイジャーたちの軌跡を振り返る。

第34回は、1980年代ボストン・セルティックスの3度のNBA王座に大きく貢献したケビン・マクヘイルを紹介する。

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【最強のシックスマンとして地位を確立】

 1980年代にロサンゼルス・レイカーズとともに、NBAの発展に大きく寄与したボストン・セルティックス。その大黒柱としてチームを牽引したのはラリー・バードだったが、フォワード陣の一角として主力を務めたケビン・マクヘイルも、歴史に残る偉大な選手だ。

 1992年のバルセロナ五輪で金メダルを獲得したドリームチームの一員だったチャールズ・バークリーは、次のようなコメントを残している。

「ケビン・マクヘイルは、私が対戦した最高の選手だ。なぜなら、オフェンスでの彼は止められないし、ディフェンスでも私を悪夢に陥れたんだ」

 ミネソタ州北部の田舎町で生まれたマクヘイルは、バスケットボール、野球、フットボールと複数のスポーツをプレーするなど、持ち前の運動能力を示すような少年時代を過ごす。バスケットボール選手としての才能が開花し始めたのはヒビング高の時で、身長とスキルの高さ、フットワークのよさを武器に、シニア(日本の高3)のシーズンに1試合平均20得点、12リバウンドを記録。1976年にミネソタ州のミスター・バスケットボール(年間最優秀選手)に選ばれたマクヘイルは、ビッグテン・カンファレンスに所属するミネソタ大に進学する。

 208cmのパワーフォワードとして1年生から主力となったマクヘイルは、4年間で平均15.2得点、8.5リバウンド、2.1ブロックショット、FG成功率55.3%を記録。3、 4年時にビッグテン・カンファレンスのファーストチームに選出されるなど、ポストプレーからの高い得点力、リバウンドの強さ、ディフェンス力、IQの高さがNBAチームの目に留まるようになっていた。

 1980年のNBAドラフト。セルティックスはNo.1ピックで指名する権利を持っていた。しかし、社長のレッド・アワーバックは前日の6月9日、ゴールデンステイト・ウォリアーズにその全体1位指名権ともうひとつの1巡目指名権を譲渡し、全体3位指名権とロバート・パリッシュを獲得するトレードを敢行。1巡目3位で指名されたマクヘイルはのちにパリッシュとともにバードを支える重要な役割を果たしたように、このトレードはセルティックスが80年代にレイカーズとNBAのタイトルを争う時代を作る大きなポイントなった。

 マクヘイルは当初、「彼は私よりも明らかに上だった」というセドリック・マックスウェルの控えだったが、1年目から即戦力となって平均10得点、4.4リバウンドを記録。1981年のプレーオフでは208cmと長い腕を生かし、ペイント内で相手を抑えるディフェンスで存在感を増していく。フィラデルフィア・76ersを4勝3敗で下して進出したNBAファイナルでは、ヒューストン・ロケッツ相手に13.8分とレギュラーシーズンより6分以上出場時間が短くなったものの、ローテーションに入る選手のひとりとしてセルティックスの優勝に貢献した。

 1981年のNBAファイナルでMVPとなったマックスウェルの存在もあり、マクヘイルは5年目の途中までベンチから出てきてチームに貢献する選手だった。1983−84シーズンが平均18.4点、7.4リバウンド、1984−85シーズンが19.8点、9リバウンドのスタッツを記録し、2年連続でシックスマン賞(最も優秀なベンチスタート選手に贈られる賞)に選出というNBA史上初の快挙を成し遂げる。

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著者プロフィール

  • 青木 崇

    青木 崇 (あおき・たかし)

    1968年群馬県前橋市生まれ。1992年から月刊バスケットボールとHOOP誌の編集者を務めた後、1998年に独立して渡米。アメリカ・ミシガン州を拠点にNBA、NCAA、数々のFIBA国際大会を取材。2011年から拠点を日本に戻して活動を続け、Bリーグの試合で解説者も務めている。

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