NBA伝説の名選手:マヌ・ジノビリ「抜群のテクニックとセンス、リーダーシップを兼ね備えNBA国際化に大きく寄与したアルゼンチンの英雄」 (4ページ目)

  • 秋山裕之●文 text by Akiyama Hiroyuki

【勝者として記憶される至高のチーム実績】

 感情を前面に出してチームを鼓舞し、常勝軍団スパーズでリーダー役もこなしてきた。独創的なプレーを展開するジノビリとは当初意見の食い違いなどがあったものの、名将ポポビッチHCは「マヌがいなければ、我々は優勝できなかった」と、4度の優勝に大きく貢献したジノビリに感謝し、「コート内外において、実に魅力的だった」とも評していた。

 レギュラーシーズン通算1057試合の出場でキャリア平均25.4分、13.3得点、3.5リバウンド、3.8アシスト、1.3スティールを残したジノビリは、背番号20がスパーズの永久欠番となり、2022年にはバスケットボール殿堂入りも果たした。

「個人として何かを達成してきたからじゃない。私は得点王とMVPを勝ち獲っていないし、(オールNBA)ファーストチームさえ入ったことがない。ここにいられるのは一緒にプレーした選手たちや指導してくれたコーチ陣、そして組織のお陰なんだ」

 確かに、ジノビリはNBAでそういったアウォードを手にしたことがない。しかし、レギュラーシーズン1000試合以上に出場した選手として史上最高勝率の72.1%(762勝295敗)をマークした実績は、評価されるべきだろう。

 また、国際大会でNBA軍団を初めて破ったチームの主砲であり、ジェームズ・ハーデン(ロサンゼルス・クリッパーズ)やディアジェロ・ラッセル(ロサンゼルス・レイカーズ)のプレースタイル構築を手伝い、アルゼンチンの子どもたちだけでなく、同じ舞台で戦ってきた選手たちにも希望を与えた。

「外国出身の選手たちにとって、(NBAで自分自身を)信じること、大きな夢を持つのは難しいこともある。彼は僕らに大きな夢を持たせてくれたし、このリーグでも偉大な存在になれることを示してくれた」

現在リーグトップレベルの選手として君臨するギリシャ出身のヤニス・アデトクンボ(ミルウォーキー・バックス)はそう話し、NBAコミッショナーのアダム・シルバーもジノビリをこう称えていた。

「マヌ・ジノビリはNBAの国際化に尽力したパイオニアです。彼はスポーツの力が人生を変えてくれると信じてきたバスケットボール界の偉大なアンバサダーのひとりです」

 現在はスパーズでスペシャルアドバイザーを務めるジノビリ。国際大会とNBAでこの男が残してきた実績は、今後も色褪せることはない。

【Profile】マヌ・ジノビリ(Manu Ginobili)/1977年7月28日、アルゼンチン・ブエノスアイレス州生まれ。1999年NBAドラフト2巡目57位指名。
●NBA所属歴:サンアントニオ・スパーズ(2002-03〜17-18)
●NBA王座:4回(2003、05、07、14)
●NBAシックススマン賞:1回(2008)
●アルゼンチン五輪代表歴:2004年アテネ五輪(優勝)、08年北京五輪(3位)

*所属歴以外のシーズン表記は後年(1979-80=1980)

著者プロフィール

  • 秋山裕之

    秋山裕之 (あきやま・ひろゆき)

    フリーランスライター。東京都出身。NBA好きが高じて飲食業界から出版業界へ転職。その後バスケットボール雑誌の編集を経てフリーランスに転身し、現在は主にNBAのライターとして『バスケットボールキング』、『THE DIGEST』、『ダンクシュート』、『月刊バスケットボール』などへ寄稿している。

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