NBA伝説の名選手:マヌ・ジノビリ「抜群のテクニックとセンス、リーダーシップを兼ね備えNBA国際化に大きく寄与したアルゼンチンの英雄」 (2ページ目)

  • 秋山裕之●文 text by Akiyama Hiroyuki

【スパーズ黄金期の主軸として】

2004年アテネ五輪準決勝でアメリカを破り、その存在をさらに知らしめた photo by Getty Images2004年アテネ五輪準決勝でアメリカを破り、その存在をさらに知らしめた photo by Getty Images

 ジノビリは、1977年7月28日にアルゼンチンのバイア・ブランカで生誕。父ホルヘは国内のプロリーグでポイントガードをしていて、7歳上のリアンドロ、5歳上のセバスチャンという兄たちもバスケットボールをしていたこともあり、その道に進む要素はそろっていた。

 当時、南米アルゼンチンにはNBAの情報がほとんど入ってこなかったものの、ジノビリはマイケル・ジョーダン(元シカゴ・ブルズほか)に憧れ、部屋にはNBAのビデオ(VHS)とジョーダンの等身大ポスターが飾られ、試合後にはそのポスターへ話しかけるほどの大ファンだった。

 10代半ばの2年間で身長が10インチ(約25cm)伸びて198㎝になった男は、ダンクもできるようになり、高校の試合で注目を浴び、卒業後は大学へ進まずアルゼンチンのアンディノへ入団。プロリーグで実力を磨き、1997年にオーストラリアで開催された「FIBA U-22世界選手権」のアルゼンチン代表としてプレーするまでになる。その時、会場にいたサンアントニオ・スパーズのRC・ビュフォードGM(ジェネラルマネージャー/当時)は、まだジノビリという名前を耳にしたこともなかったが、彼のプレーに衝撃を受けた。そして、こう語った。

「まるで未熟な若者がコートへ出ているかのようだった。本当に驚かされたよ。理にかなっていることもあったが、理解できない部分もあったね」

 当時のスパーズは、デビッド・ロビンソンとティム・ダンカンによるツインタワーで1999年に球団史上初優勝。その結果、ドラフトでは高順位を得ることできなかったため、同年のドラフト2巡目全体57位でジノビリを指名している。

 ただ、「あの時は『何だって?』って思った。信じられなかったんだ。失敗だと思ったね。僕はまったく期待されていなかった。期待値ゼロだったのさ」と、当時のことを振り返ったジノビリ。彼にとっては、まさに寝耳に水だったことがうかがえる。

 そこからジノビリは、イタリアに渡って成長を続けていく。ビオラ・レッジョカラブリアで2年間プレーし、ビルトゥス・キンダー・ボローニャへ移籍すると2000-01シーズンにユーロリーグ優勝、ファイナルMVPにも輝いた。

 2002年の世界選手権を挟んで2002-03シーズンからスパーズ入りしたジノビリは、ケガでチームへの合流が遅れたこともあって平均20.7分、7.6得点、2.3リバウンド、2.0アシスト、1.4スティールにとどまった。それでも、ローテーションの一角を務め、新人ながら勝負どころでも活躍。チームは成長著しい若手ガードのトニー・パーカーの台頭もあり、2003年に2度目の優勝を飾る。

 その後、スパーズはダンカン、パーカー、ジノビリの"ビッグスリー"体制へ移行していく。2005年にはジノビリが相手どころか味方さえも欺く予測不能な動きの数々でコート上を席巻し、3度目の優勝を手にした。

 さらにスパーズは2007年にも優勝を達成するのだが、その過程で不可欠だったのはジノビリのシックスマン(試合途中でベンチから出場する一番手の選手)への転向だった。グレッグ・ポポビッチHC(ヘッドコーチ)は技巧派レフティの能力をさらに生かすべく、2006-07シーズン中盤からシックスマンとして固定。この決断によって、スパーズは先発のダンカンとパーカーが試合を作り、彼らがベンチへ下がった時間帯でもジノビリが主役となってチームメイトたちを盛り立てることでチーム力が増した。

 スパーズはビッグスリーの脇を固める選手たちを入れ替えつつ、プレーオフ出場を続けていき、2013年にもファイナル進出。この年はマイアミ・ヒート相手に3勝2敗から屈辱の2連敗で惜しくも優勝を逃すも、翌2014年にヒートへリベンジして見事チャンピオンへ返り咲き、通算5度目のリーグ制覇を達成する。

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