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NBA伝説の名選手:ドラジェン・ペトロビッチ「ドリームチームに立ち向かったクロアチアの"モーツァルト"」 (3ページ目)

  • 青木 崇●文 text by Aoki Takashi

【28歳の若さで亡くなる】

 2シーズン連続でネッツのプレーオフ進出に貢献し、これからが全盛期と期待されたペトロビッチだったが、1993年6月7日の夕方にまさかの最期を迎えてしまう。クロアチア代表としてユーロバスケットの予選を戦ったあと、ペトロビッチはドイツのフランクフルト乗り継ぎでザブレブに向かう飛行機に搭乗せず、ガールフレンドが運転する車で移動。しかし、悪天候が災いし、車が高速でトラックに激突する事故が発生すると、助手席で眠っていたペトロビッチは頭部を強打し、28歳の若さで亡くなってしまったのである。

「そのニュースを聞いた時、私は信じることができなかった。まるで私の一部が奪われたようだった。ドラジェンは単なる兄弟ではなく、私にとって最高の親友だった」とは、兄のアレクサンダル。ペトロビッチの死は家族だけでなく、クロアチアの国民、世界中のバスケットボールファンを悲しませた。ペトロビッチの葬儀には10万を超える人たちが参列したという。シカゴ・ブルズの第2次黄金期を支えた、クロアチア出身のトニー・クーコッチは次のような言葉を残している。

「葬儀はドラジェンが世界に与えた影響の証しだ。世界中から人々が彼を偲んで集まった。誰もがとても感情的になってしまう日だった」

 ネッツは11月3日にペトロビッチの背番号3を永久欠番とし、2002年にバスケットボール殿堂入りを果たした。

 悲劇の死から31年が経過した現在、NBAには数多くのヨーロッパ出身の選手がプレーしている。NBAのバスケットボールをグローバル化させた先駆者として、ペトロビッチが多くのヨーロッパ出身の選手に道を開いたのは間違いない。

【Profile】ドラジェン・ペトロビッチ(Drazen Petrovic)/1964年10月22日生まれ、ユーゴスラビア・シベニク出身。1986年NBAドラフト3巡目60位指名。28歳没。
●NBA所属歴:ポートランド・トレイルブレイザーズ(1989-90〜90-91途)―ニュージャージー・ネッツ(90-91〜92-93)
●NBA王座:0回
●五輪代表歴:1984年ロサンゼルス五輪(3位/ユーゴスラビア)、92年バルセロナ五輪(2位/クロアチア)

*所属歴以外のシーズン表記は後年(1979-80=1980)

著者プロフィール

  • 青木 崇

    青木 崇 (あおき・たかし)

    1968年群馬県前橋市生まれ。1992年から月刊バスケットボールとHOOP誌の編集者を務めた後、1998年に独立して渡米。アメリカ・ミシガン州を拠点にNBA、NCAA、数々のFIBA国際大会を取材。2011年から拠点を日本に戻して活動を続け、Bリーグの試合で解説者も務めている。

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