NBA伝説の名選手:ドラジェン・ペトロビッチ「ドリームチームに立ち向かったクロアチアの"モーツァルト"」 (2ページ目)

  • 青木 崇●文 text by Aoki Takashi

【ひとりで112点をマークした試合も】

 旧ユーゴスラビア(現クロアチア)のシベニクで生まれたペトロビッチは、兄のアレクサンダルとともにバスケットボールに情熱を注いだ幼少期を過ごす。学校に行く前の早朝、昼、夜とシューティングやボールハンドリングといった練習を毎日欠かせずに行なうだけでなく、敗戦後にひとりで体育館に残って練習するくらい、負けず嫌いな少年だった。アレクサンダルは弟について、「ワーカホリックで、熱狂的なバスケットボール中毒なんだ。何時間も体育館で過ごすだけでなく、オフは1日もない」と話す。

 15歳でシベニカのトップチームでプレーするようになったペトロビッチは、在籍2年目からチームの中心選手として活躍。1982−83シーズンには1試合平均24.5得点を記録すると、19歳で出場した1984年ロサンゼルス五輪で平均17.5得点をマークする活躍でユーゴスラビアの銅メダル獲得に貢献。五輪後にシベニカからシボナ・ザグレブに移籍すると、27試合の出場で平均32.5点と大活躍のシーズンを過ごした。

 40点、50点が普通と言われるくらいのスコアラーに成長したペトロビッチは、1985年10月5日にシボナが158対77で大勝したオリンピア戦で112点をマーク。これは当時のユーゴスラビアにおける1試合史上最高得点であり、フィールドゴールを60本中40本成功させていた。そのうち3ポイントショットが10本、フリースローはミスなしで22本決めたのである。

 高い得点能力に加え、トリッキーなアシストなど創造性に富んだプレースタイルを持っていたことから、ペトロビッチは『バスケットボール界のモーツァルト』と呼ばれていた。この試合の映像は残念ながら残されていないが、クロアチア代表としてバルセロナ五輪でも一緒にプレーしたストヤン・ブランコビッチは、次のように語っている。

「あんなのは見たことがない。ドラジェンはボールを扱う魔術師だった。あの試合は彼が記録した得点だけでなく、プレーの仕方でも永遠に記憶されるだろう」

 1986年にポートランド・トレイルブレイザーズから3巡目60位でドラフト指名されたが、ペトロビッチのNBAデビューは1989−90シーズン。ユーゴスラビア代表として1988年のソウル五輪で銀メダル、1989年のユーロバスケットボール(欧州選手権)で金メダルを獲得したあとだった。

 しかし、ブレイザーズではクライド・ドレクスラー、テリー・ポーターという優秀なガードが先発を務めていたために出場機会が少なく、ペトロビッチは不満の日々を過ごすことになる。1990年の世界選手権でユーゴスラビアの金メダル獲得の原動力になったが、2年目の1990−91シーズンも出場時間0分が20試合を数えるなど、事態は悪くなるばかりだった。

 1991年1月23日、ペトロビッチはデンバー・ナゲッツを絡めた三角トレードで、ブレイザーズからニュージャージー・ネッツ(現ブルックリン)に移籍。2日後のロサンゼルス・レイカーズ戦で14点を記録したのを皮切りに、43試合で1試合平均12.6得点をマークした。

 ケニー・アンダーソン、デリック・コールマンとネッツを牽引するトリオを構成したペトロビッチは、2シーズン連続で平均20点以上の数字を残す。1993年1月24日のヒューストン・ロケッツ戦でNBA自己最多となる44得点を記録するなど、オールスターのガードが相手であっても、アグレッシブに得点を狙いにいく選手として知られるようになった。

 1992−93シーズンのオールNBAサードチームに選出されたペトロビッチについて、ジョーダンはこんなコメントを残している。

「ドラジェンは競争心の強いすばらしい選手だ。コート上では常にベストを尽くし、挑戦から決して引き下がらなかった。彼は私が対戦したなかで最高のシューターのひとりであり、コートのどこからでも得点できる選手だった」

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