F1日本GPを語ろう(1)中嶋悟 角田裕毅は生徒の時から「クルマを動かす意思」を持っていた
F1日本グランプリを語ろう(1)
中嶋悟インタビュー
これまで秋に開催されてきたF1日本グランプリが、2024年から初めて春に行なわれるスケジュールとなった。今年は4月5日〜7日に鈴鹿サーキットで開催される。
これまで数多くのドラマが生まれ、日本のみならず世界中から注目を集める鈴鹿でのF1日本グランプリ。その歴史のなかには、数々の日本人F1ドライバーの活躍もあった。
今回は日本人として初めてF1レギュラー参戦を果たし、1987年と1990年の鈴鹿F1で6位入賞を果たした元F1ドライバーの中嶋悟氏に当時の話を聞いた。現在は自身が率いるレーシングチーム「NAKAJIMA RACING」の総監督として、スーパーGT(GT500クラス)とスーパーフォーミュラの現場で活躍中だ。
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2024年現在と1987年当時の中嶋悟氏 photo by Yoshida Shigenobu, AFLOこの記事に関連する写真を見る── 中嶋さんは1987年から1991年までF1日本グランプリを5度経験しましたが、今でも特に思い出になっている大会はありますか?
「やはり、最初(1987年)と最後(1991年)ですね。もちろん、最後は引退することを発表していて、お客さんもそれをわかっていたので、その時の応援がものすごくて......感動的でしたね」
── 初めてF1日本グランプリを戦った時は、いかがでした?
「それまで、鈴鹿でF2(現スーパーフォーミュラ)をやっていた頃のお客さんの量と比べると(F1は)全然違いました。『自分が海外を転戦して、日本に帰ってきたよ!』というのを見せる意味でも、やっぱり違いましたね。もちろん、サーキットの景色も違いましたよ」
── それだけ多くのお客さんが鈴鹿サーキットを埋め尽くすという光景は、以前から鈴鹿サーキットでレースをしてきた経験のある中嶋さんでも、初めてのことだったのですか?
「あの時点では初めてでしたね。当時はスタンド席も整備されてないから、いつもだと走っていて草木の色が見える場所が多かったんです。それがS字とか2コーナーとか、全部ずっと埋まって人の色だったというのを覚えていますね」
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著者プロフィール
吉田知弘 (よした・ともひろ)
モータースポーツジャーナリスト。1984年12月19日生まれ、石川県出身。2011年よりスーパーGT、スーパーフォーミュラなど国内4輪レースを中心に取材。専門誌やweb媒体などで執筆中。日本モータースポーツ記者会所属。