平成のF1狂騒曲。中嶋悟の鈴鹿ラストランとアイルトン・セナの時代
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平成スポーツ名場面PLAYBACK~マイ・ベストシーン
【1991年10月 F1日本GP】
歓喜、驚愕、落胆、失意、怒号、狂乱、感動......。いいことも悪いことも、さまざまな出来事があった平成のスポーツシーン。現場で取材をしたライター、ジャーナリストが、いまも強烈に印象に残っている名場面を振り返る──。今回は、記憶に残るあの日の鈴鹿でのレース。
平成は西暦でいうと1989年からスタートしている。平成という時代が幕を開けてからの数年間は、日本におけるF1の注目度とファンの熱量がピークに達していた。その中でも91年シーズンの第15戦に組み込まれた日本GPは、もっとも注目度の高いレースだったと言っていいだろう。
鈴鹿サーキットで5回目となる日本GPは地上波でテレビ中継され、視聴率は20%を超えたが、レースが始まる前からファンの間で狂騒の日々が始まっていた。というのも、日本初のレギュラーF1ドライバー、中嶋悟(ティレル・ホンダ)がこのシーズン限りでの引退を表明し、日本GPは母国でのラストランだったからである。
日本人初のF1フル参戦ドライバーの中嶋悟 さらに当時、アイドル的な人気を誇っていたアイルトン・セナとマクラーレン・ホンダのタイトル決定戦にもなっており、ファンの間では激しいチケット争奪戦が繰り広げられた。
インターネットが普及していなかったこの時代、日本GPの観戦チケットは抽選だった。購入希望者は往復ハガキを鈴鹿サーキットに送り、抽選に当たるとチケットを購入することができた。当時、ひとりで20枚や30枚のハガキを送るのは珍しくなく、文字どおりプラチナチケットを手にした33万7000人が3日間のイベント期間中に鈴鹿に押し寄せた。
サーキットの熱気はすさまじかったが、スタート前、観客席で巻き起こったウェーブには驚かされた。現在では大きなスポーツイベントでウェーブが起こるのは珍しいことではないが、あの日、鈴鹿でウェーブという現象を初めて目の前で見て、ただ圧倒されたことが記憶に残っている。
91年の日本GPの観客席でウェーブに加わっていた多くのファンはこう思っていた。
「中嶋悟に有終の美を飾ってほしい」「セナにはタイトルを争うウイリアムズ・ルノーのナイジェル・マンセルを倒して、タイトルを決めてほしい」
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