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毎度お騒がせワールドカップのチケット販売の変遷 申込用紙での簡単購入から複雑に変化 (2ページ目)

  • 後藤健生●文 text by Takeo Goto

【アヴェランジェによる商業主義化】

 当時のサッカー界は、商業主義化される前のことだった。

 FIFAを運営しているのは主に欧州各国のサッカー協会出身の人たちだった。第2次世界大戦後、欧州ではサッカーのプロ化が進んでいたが、それはクラブレベルでの話。協会の仕事に携わっているのは上流階級、知識階級のアマチュア色が濃い人たちだった。

 FIFA会長はイングランドのサー・スタンリー・ラウス。教師出身で、審判員として有名な人だった。

 だから、彼らはサッカーで(W杯で)金を儲けようなどとは考えていなかった。運営費が賄えればよかったのだ。

 したがって、入場券はリーズナブルな料金に設定され、試合を見たい人が見たい試合の入場券を買えばいいという考え方だった。1970年のメキシコ大会からはピッチ周辺に広告看板が並び始めていたが、それも地元企業の看板が多かった。

 しかし、サッカーは次第に商業主義化の道を進み始めた。

 1974年のW杯開幕直前にフランクフルトで行なわれたFIFA会長選挙で、ジョアン・アヴェランジェが選出された。ブラジル人で水泳と水球の元五輪選手。運送業を中心に事業を営む大富豪だった。アヴェランジェ会長は「W杯は収入源になる」と考え、また世界的な大企業をスポンサーにして収入を増やそうとした。1977年にはコカ・コーラをスポンサーに付けて第1回ワールドユース選手権大会(現U20W杯)を開催した。

 アヴェランジェのFIFAがW杯で考えたのは、「どうやって入場券を売るか」ということだった。

 当時は、まだ海外から多くの観客がやって来ることはなかった。西ドイツでW杯が開催されれば観客のほとんどは地元のドイツ人。外国人サポーターとしては、ドイツに住んでいたユーゴスラビア系の外国人労働者の姿が目立つくらいだった。

 ゲルゼンキルヘンなどオランダ国境に近い会場では多くのオランダ人を見かけたが、W杯のために海を渡ってやって来るのは、よほどの金持ちか熱狂的なサポーターだけだった。

 だから、開催国の試合や好カードは満員になって入場券の入手も困難だったが、それ以外の試合は空席が目立っていたのだ。

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