三戸舜介「このままでは絶対にA代表になれない」 三笘薫や伊東純也を超えるために欠けているもの
三戸舜介(スパルタ・ロッテルダム)インタビュー後編
◆三戸舜介・前編>>「パリ五輪後、燃え尽き症候群になっていた」
三戸舜介がオランダのスパルタ・ロッテルダムに加入したのは2024年1月。パリオリンピックが開幕する半年前のことだった。
移籍したことで出場機会を失い、パリオリンピックの代表メンバーから落選する可能性もあった。しかし、そのリスクはまったく考えなかったという。なぜならば、三戸にはさらなる上に見据える明確な目標があるからだ。
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ゴールを決めてガッツポーズの三戸舜介 photo by AFLOこの記事に関連する写真を見る── 三戸選手はJリーグで3シーズンプレーしてアルビレックス新潟を離れ、海外クラブへ飛び立ちました。ほかの同世代と比べて早いほうですよね?
「今のA代表のメンバーはほとんど全員、ほぼ海外組じゃないですか。国内組は数人しかいないので、だから絶対に早く海外に行かないといけないと思っていました。やっぱり海外に早く行ったほうが、それこそ海外慣れ、順応もすると思うので、若ければ若いほどいいなと。
それに日本代表に選ばれたら、対戦するのは外国人選手が相手じゃないですか。新潟でやっていた時、年代別代表に選ばれて日本人ではない選手と対戦すると、やっぱり難しいところもあった。最初は全然うまくいかなかったので、慣れの面でも早く海外に出たほうがいいかなって思いました」
── スパルタ・ロッテルダムではフル出場こそないものの、移籍1年目から毎試合ほぼ出場していました。
「試合に出られていたからこそ、オリンピック予選には行けなかったんですけど、それはプラスに捉えていました。どっちも試合に出られていなかったら気持ちは落ちていたでしょうけど、スパルタで試合に出ているし、本番のオリンピックで結果を残せばという気持ちだったので」
── 無事にオリンピックに出場してチーム最初の得点も挙げましたが、オランダに戻ってから少し苦労しました。
「オリンピックはすっごい楽しみにしていて、大会中もそんなに緊張しなかった。1戦目に点も取れたし。だからその反動なのか、終わったあとに燃え尽き症候群のような感じになりました」
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著者プロフィール
了戒美子 (りょうかい・よしこ)
1975年生まれ、埼玉県出身。2001年サッカー取材を開始し、サッカーW杯は南アフリカ大会から、夏季五輪は北京大会から現地取材。現在はドイツを拠点に、日本人選手を中心に欧州サッカーを取材中。著書『内田篤人 悲痛と希望の3144日』(講談社)。