上田綺世に小野伸二から激励も フェイエノールトの「特別な存在」を目指す

  • 中田徹●取材・文 text by Nakata Toru
  • photo by AFLO

 2001年1月、小野伸二がフェイエノールトの練習に参加した時、サポーターは懐疑的な声で「シンジ・オノ? 知らねえなあ。ヨーコ・オノなら知っているが......」と言ったものだ。

 有名なジョン・レノンとオノ・ヨーコのベッドイン写真は1969年、アムステルダムのヒルトンホテルで撮られたこともあり、オランダ人の間では「オノと言えばヨーコ」だった。

フェイエノールトの一員となった上田綺世フェイエノールトの一員となった上田綺世この記事に関連する写真を見る しかし、それも束の間のことだった。

 オランダでのデビューマッチとなったスパルタ戦(2001年8月19日)、小野は利き足とは逆の左足で、のちに「ベルベットパス(なめらかな肌触りのパス)」の異名をつけられるスルーパスをFWヨン・ダール・トマソンに通し、アシストを記録したのだ。

 卓越したテクニックで、小野は試合だけなく、練習場でもファンを虜(とりこ)にした。また、ファンサービスもプロの鏡。ひとりひとりに対して丁寧にサインや写真に応え、やがてオランダ語も流暢にしゃべるようになった。

 2002年のUEFAカップ戴冠に小野は大貢献し、「オノと言えばシンジ」になったばかりでなく、日本人MFのステータスを高めた。2002年8月に藤田俊哉がユトレヒトに、2003年1月に戸田和幸がADOデン・ハーグに加入したのは、決して偶然ではない。

 小野のフェイエノールト入団から10年後、今度は宮市亮がアーセナルから半年間ローンでロッテルダムの名門クラブの扉を叩いた。

 まだ高校3年生という異色の韋駄天ウインガーは、低迷期のフェイエノールトにフレッシュな風を吹き込み、ホームデビューマッチのヘラクレス戦(2011年2月12日)で初ゴールを決めたうえ、マン・オブ・ザ・マッチに輝いた。

 試合後、スタディオン・フェイエノールトのセンターサークルでカクテル光線を浴びながら、リーオ、リーオ、リーオ」というコールを受け、四方にお辞儀した宮市の勇姿は忘れられない。チームメイトのMFディエゴ・ビセスワールが「リオジーニョ」というあだ名をつけたのも、この試合直後だった。

 やがて宮市のパフォーマンスが落ちると、マリオ・ベーン監督は戦術ボードに「↑」と書き「思い切って縦へ行け!」とピッチに送り出した。

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