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亡きヴィアリとイタリア代表監督マンチーニ。イタリアが涙した「双子」の友情の物語

  • 利根川晶子●文 text by Tonegawa Akiko
  • photo by AP/AFLO

ヴィアリとマンチーニ(前編)

 1月6日、ジャンルカ・ヴィアリがすい臓がんで亡くなった。選手として、コメンテーターとして、そしてアッズーリ(イタリア代表)のスタッフとして長くイタリアサッカーの顔であった彼の死は、多くのイタリア人にショックをもって受け止められた。なかでも大きな喪失感に襲われているのは、現イタリア代表監督のロベルト・マンチーニだろう。彼らの人生は長きにわたり、密に、何度も交差してきた。

 選手として、親友としてのふたりの物語を追っていきたい。

ジャンルカ・ヴィアリの死を悼み、背番号9のユニフォームで登場したサンプドリアの選手たちジャンルカ・ヴィアリの死を悼み、背番号9のユニフォームで登場したサンプドリアの選手たちこの記事に関連する写真を見る「Gemelli di gol(ゴールの双子)」

 ヴィアリとマンチーニは現役時代、そう呼ばれていた。ピッチではまるで双子のように、目をつぶっていても相手のことがわかったからだ。ただし、同じアタッカーでもタイプはまるで違った。

 ヴィアリはパワフルにピッチを走り回り、アクロバティックなゴールが得意で、何よりも自分でシュートを決めるのが好き。一方、マンチーニは、あまり動かず、優れたテクニックで相手を凌駕し、プレーの先を読み、ヒールキックが得意で、自分がゴールするより、誰かにゴールさせるほうが尊いと思っていた。

 性格もまるで違った。ヴィアリは冗談好きでいつも笑顔をたたえていたが、マンチーニは短気で頑固、チームメイトとも対戦相手ともよく衝突した。まるで正反対なふたりだったが、だからこそお互いを補い合えたのかもしれない。

 イタリア国営放送RAIのドキュメンタリー『スフィーデ(挑戦)』はスポーツ界のエピソードを紹介する人気番組だ。ヴィアリはそのなかで、ふたりの友情について語っている。

 ヴィアリとマンチーニの出会いはイタリア代表のトレーニングセンター、コヴェルチャーノだった。イタリアサッカー協会は毎年各クラブの優秀な若手を集め、年代別代表のセレクション行なっていたが、1981年の招集で、ふたりは初めて顔を合わす。ともに17歳だった。

 この時すでにマンチーニはセリエAのボローニャで活躍をし、名前も知られていたが、ヴィアリはセリエCとBの間を行ったり来たりしていたクレモネーゼの選手だった。

「同い年なのにもうAで活躍していて、別格という感じだった。足にすごく筋肉がついていて、前髪も鼻のあたりまで伸ばしていて、なんかすごい奴だなと思ったよ。実際トライアルでもすごくいいプレーをしていたので、こいつは今後、手強いライバルになると思ったね」

 ヴィアリは当時のマンチーニの第一印象を、後にこう語っている。

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