亡きヴィアリとイタリア代表監督マンチーニ。イタリアが涙した「双子」の友情の物語 (3ページ目)

  • 利根川晶子●文 text by Tonegawa Akiko
  • photo by AP/AFLO

【優勝するまでチームを去らない】

 当然、多くのビッグクラブがこの若きストライカーたちに目をつけた。なかでも特にヴィアリを気に入っていたのがミランの新オーナー、シルビオ・ベルルスコーニだった。彼は何が何でもヴィアリをミランに連れてこようとした。1987年春、ミランはヴィアリに高額のオファーをし、ほぼ契約したとの噂も流れた。コンビは早くも解散の危機に陥ったが、マンチーニと仲間たちは何が何でもそれを阻止しようとヴィアリを説得した。最終的に彼はサンプドリアに残ることにする。

「このチームに残りたい、このチームでプレーしたいと思ったんだ。お金や名声は関係ない。でも、ミラニスタは僕に感謝したほうがいいと思うよ。もしあの時、僕がミランに行っていたら、マルコ・ファン・バステンは別のチームに行っていたかもしれない」

 ヴィアリはそう語っていた。

 彼の勇気ある決断は、他の選手たちのモチベーションを上げ、絆をより強くした。スクデットを勝つまでは誰もチームを去らない。ヴィアリ、マンチーニら中心選手たちの間で、そんな盟約がかわされた。

「ここまで来たからには、もう優勝するしかないと思っていた」

 マンチーニは語っている。

 優勝への確信がより強くなったのは、1986年サンプドリアに新たにやって来た監督が理由でもあった。ヴヤディン・ボスコフ。レアル・マドリードの監督としてチームを二度リーグ優勝に導いた名将である。頭脳明晰で8カ国語を操り、何より偉大な心理学者でもあった。彼は選手にいつ何を言ったら士気が上がるのかを熟知していた。ボスコフは若いチームに勝利のメンタリティーと、自分たちは強いという自覚をもたらした。

 ヴィアリとマンチーニのコンビネーションは、試合を重ねるごと、シーズンを重ねるごとに上がっていった。

「ヴィアリがサンプドリアで150ゴールを決めたなら、100は僕のおかげだ」

 マンチーニがそう言うとヴィアリは決まってこう反論した

「マンチーニこそ俺とプレーできてラッキーだった。俺はどんなへぼいアシストでもゴールに変えてしまうから。そのおかげでアシストマンを名乗れたんだ」

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