ふだんは無視。メディアが女子サッカー選手に注目するのはどんな時か (2ページ目)
なぜか。僕たちが男性のアスリートに関心を持つのは、彼らが「理想の男性」として見られているからだ。僕たち男の子はサッカー選手のポスターを部屋に貼った。彼らは僕たちがなりたかった男性だった。サッカー選手についての本や雑誌を読んだのも、理想に近づくためだった。彼らが何か失敗をしてメディアに批判されても、それは男性として生きるうえでの問題と向き合うヒントになる。高い年俸欲しさにクラブを去るというあの選手はチームメイトを失望させるのではないか? 彼のポニーテールはいくらなんでも女みたいじゃないか? 彼はあの選手を殴るべきだったのだろうか?
多くの女性も男性のサッカー選手にあこがれる。というより、女性は男性と同じくらい理想の男性に関心がある。だから男性のサッカー選手は、ガールフレンドに困らない。
男性がスポーツ紙を読んでいる間、女性はゴシップ誌を読む。スポーツ紙が一般受けする理想の男性(デビッド・ベッカム、クリスティアーノ・ロナウド)を紹介する一方、ゴシップ誌は一般受けする理想の女性を紹介する。こうした雑誌に登場する理想の女性は、たいていアスリートではない。歌手やモデル、俳優や王族だ。彼女たちが何か失敗をしてメディアに批判されても、読者が女性として生きるうえでのヒントになる。彼女は離婚すべきだったの? あの年で子どもを産むべきだったの? あんな服、着るべきなの?
こういう雑誌に登場する女性たちをモデルにしろと、他の女性たちは教えられる。僕の5歳になる娘がすでにそうだ。この年ごろの女の子の例にもれず、娘には「お姫さま願望」がある。彼女のヒーローはリオネル・メッシではない。シンデレラだ。ある日僕がテレビでサッカーを見ていたら、娘が言った。「サッカーってつまんない」。僕と妻は娘にそんなふうに教えたことはない。彼女がどこかでそう学んだということだ。
女子サッカー選手が注目を集めるのは、彼女たちが昔ながらの理想の女性像にはまったときか、そのイメージを大きくはずれたときだけだ。その点で重要な2つのエピソードは、どちらもアメリカが舞台になっている。
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