ストイコビッチからジャカとシャキリまで。コソボ紛争をサッカーから理解する (2ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko
  • photo by Jiji Photo

 思えばアーセン・ベンゲル(元グランパス監督)にアーセナルに誘われても、断って7年も日本でプレーを続けたのは、日本での生活を気に入った家族のためでもあった。

 Jリーグの黎明期を支えた外国人選手の中では人気、実力ともにベストであろうストイコビッチも今では信じてもらえないかもしれないが、24年前、名古屋グランパスエイトに加入し、来日した当初は徹底的にヒール(悪者)にされていた。

 1994年セカンドステージ、サンフレッチェ広島とのデビュー戦ではイエローカードを2枚もらい18分でいきなりの退場。プレーそのものよりも審判に異議を唱えてはイエローカードを収集するということを繰り返し、翌95年もファーストステージは出場停止をくらい続けた。

 Jリーグの審判のレベルの低さに対する苛立ちがまずあった。ベンゲルはその苦悩を見抜いてこう言っていた。「ピクシーは非常に優れた才能の持ち主だから、いいものと悪いものを人よりも早く判断できる。その繊細さゆえにジャッジに怒りを覚えるのだ。審判は本来、プレーのファウルに対して警告を発すべきなのに、日本の審判はファウルではなく選手の言動にイエローを出す。これは明らかに間違っている」

 地元名古屋の中部日本放送はイングランド紳士ゲーリー・リネカー(元グランパス)がどれだけ手を使っても警告は出されないのに、ストイコビッチには遠慮会釈もなくカードが突きつけられる理不尽さを、実際に映像を使って報道枠『ニュースワイド』の中で検証していたほどだ。

 さらにイライラの要因としてもうひとつあったのが、当時キャプテンとして牽引したユーゴスラビア(現セルビア)代表の置かれた状況であった。

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