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【Jリーグ連載】小学生で読売クラブ入りした菊原志郎 練習場まで「親の送迎はダメ。ジャージで電車に乗るな、とも言われた」 (2ページ目)

  • 浅田真樹●取材・文 text by Masaki Asada

――当時からサッカーには自信があったのですか。

菊原 僕は小学生の時、地元の少年団にいたんですけど、ふだんは家の近所の階段でドリブルしたり、ガタガタの壁にシュートを打って、どこに跳ね返るかわからないボールをピタッと止めたり。そんなことをやっていたので、どんなボールが来てもワンタッチコントロールできる、みたいなことは小学2、3年生で身について、4年生の頃はかなり能力が抜けている感じでした。

――当時のサッカー少年団は、どんな感じでしたか。

菊原 指導者が熱心で強いクラブもありましたけど、横浜市の少年団はだいたい地域制なので、遠くから強いところへ行くっていうことは、たぶん僕の時代はなかったと思います。

 戦術とかもなかったですね。監督、コーチに言われたことを一生懸命にやるみたいな、学校体育と一緒ですよ。そういうサッカーでした。

――では、読売に入ったら環境がガラッと変わった。

菊原 読売に入ると、指示がない。自分で考えろ、と。カルチャーショックはカルチャーショックでした。

――すぐに馴染めましたか。

菊原 これは、僕の家の子育てが影響しているんですけど、比較的早く馴染めました。僕の父は子どもの頃に結核で、あと半年の命だと言われたこともあったみたいで、僕は子どもの時から「お父さんはいつ死ぬかわからないんだから、何でも自分でできるようにしなさい」と言われて育ちました。父はたまたま特効薬が入ってきて治ったんですけど、「早く自立しろ」と言われて育ったので、自分で考えてどんどんやるっていう、読売の感覚がすごく合ったんです。

――小学生が毎日、横浜からよみうりランドまで通っていたのですか。

菊原 よみうりランドまでは、電車3本を乗り継がなきゃいけなくて、さらにあの(駅からグラウンドへ続く)山道を30分歩くんで(苦笑)、片道1時間15分くらいはかかりましたね。でも、僕の同級生だった安達亮(現カターレ富山監督)は、千葉県の船橋から通っていましたし、山梨県の大月とかから通っている子もいましたしね。

 しかも、親の送迎はダメで、自分の力で練習場に来い、と。それに、ジャージで電車に乗るな、とも言われていましたから。

――読売はそういうところも厳しかったんですね。

菊原 すべてが、自分で考える力を高めていくことにつながっているんです。ジャージがダメだったのも、私服はできるだけおしゃれな格好をしてこい。サッカー選手はセンスがよくないといけない、と。

 ただそれは、僕らが読売のジャージで電車に乗っていて悪いことしたら困るじゃないですか。もしかしたら、そういうのもチラッとあったかもしれません(笑)。

(つづく)◆読売クラブの「天才」の系譜を継ぐ菊原志郎はこうして育った>>

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