【Jリーグ】福西崇史が振り返るジュビロ完全優勝「2002年の高原直泰は覚醒していた。すごいペースでゴールを量産」 (4ページ目)
【キャリア唯一のドリブルシュート】
このふたりに導かれるように、この年は僕も点を取ることができました。ツートップが裏に抜けて、ディフェンスをうしろに連れていってくれるので、中盤から前に上がりやすくなるんですよ。だから点を取る意識も高まりましたし、かなりやりやすかったですね。
セカンドステージの優勝を決めた14節の東京ヴェルディ1969(現・東京ヴェルディ)戦でも、僕はVゴールを決めることができました。引き分けでも優勝だったんですけど、勝利へのこだわりは捨てられませんでした。
延長に入った時点でチームとしては負けなければいいので、無理にVゴールを取りにいく必要はなかったんです。だけど、僕はどうしても勝って決めたかったので、怒られながらも前に残って点を狙ったんです。
残り1分くらいだったので引き分けも覚悟しましたが、左サイドで金沢浄が相手のクリアボールをがんばってブロックしてくれて、そのこぼれ球が前に上がっていた僕の目の前に落ちたんですよ。それを拾ってそのままドリブルで切れ込んで、右足を振り抜きました。
おそらくドリブルシュートを決めたのは、これがキャリアのなかで唯一だったと思います。それがあの大事な場面で出たのは、運命的だったかもしれません。
やっぱりあの年は、ファーストもセカンドも両方獲ると決めていましたから、とにかく結果がほしかった。優勝に対する想いの強さがもたらしてくれたゴールだったと思います。
(つづく)
◆福西崇史・後編>>「N-BOXで戦った2001年が一番強かった」
【profile】
福西崇史(ふくにし・たかし)
1976年9月1日生まれ、愛媛県新居浜市出身。1995年に新居浜工高からジュビロ磐田に入団。ハンス・オフト監督の勧めでFWからボランチにコンバートする。激しいプレーで磐田の黄金期を支え、Jリーグベストイレブンを4度受賞。2006年限りで磐田を退団し、FC東京→東京ヴェルディを経由して2008年に引退。その後は指導者・解説者として活躍しつつ、2018年には南葛SCで現役復帰し、翌年は監督も務めた。日本代表として2002年・2006年のワールドカップに出場。国際Aマッチ通算64試合出場7得点。ポジション=MF。身長181cm、体重77kg。
著者プロフィール
原山裕平 (はらやま・ゆうへい)
スポーツライター。1976年生まれ、静岡県出身。2002年から『週刊サッカーダイジェスト』編集部に所属し、セレッソ大阪、浦和レッズ、サンフレッチェ広島、日本代表などを担当。2015年よりフリーランスに転身。
【フォーメーション】ジュビロ磐田2001年〜2002年「N-BOX」システム
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