高校卒業後、即海外クラブ入りした伊藤翔「仮に高校時代に戻ってキャリアを選択するとなっても、同じ道を選ぶ」 (4ページ目)
もちろん、ケガも実力のうちなので僕の実力不足に他ならないんですけど、それも元をたどれば僕の情報収集不足が招いたことだったというか。学生時代はケガなんてしたことがなかった分、正直、リハビリがどういうものかもわかっていなかったし、体への理解もなさすぎた。結局、丸1年くらいプレーできず、復帰してからも自分の感覚を取り戻すまでにすごく時間がかかってしまった」
もっとも、そうした苦境に直面しながらも、伊藤は「仮に今の自分がもう一度、高校時代に戻ってキャリアを選択するとなっても、同じ道を選ぶと思う」と言い切る。
「帰国する時は正直、海外からプロキャリアをスタートしたことの是非は、キャリアを終える時に明らかになるんだろうなと思っていたんです。でも、こうして引退が近づいた今は、永遠にその答えは出ない気もしています。
プロの世界は何試合出た、何点取ったという"数字"も大事で、グルノーブルではそれを求められなかったのも事実だと思います。でも、正解か不正解かではなく、あの時間に自分が納得しているか、いないかを判断するなら、間違いなく納得している。
思い切って飛び込めたから得られたものもたくさんあって、それが今の自分にも息づいていることもたくさんありますしね。って思うから、同じ状況に置かれても『もう一回行く』という答えになるんだと思います。つまり正解、不正解を永遠に判断できることはなく、これが自分のキャリアだということ以外に答えはないのかもしれません」
そう胸を張れるのは、彼がその時の経験はもとより、以降のキャリアでも常に自身で選択した道を、自ら正解にするために全力を尽くしてきたからでもあるはずだ。
実際、グルノーブルを退団後、2010年6月に始まる日本でのキャリアにおいても、伊藤は常にその時々の選択に責任を持って向き合ってきた。帰国して以降は、代理人を介すことなく自らクラブとの契約交渉を行ない、自分にとって何がベストな選択かを考え、判断してきたのも、それを指し示す要素のひとつだと言っていい。
「自分が交渉の席に着けば、きちんとクラブの意向や考え方を理解して次のシーズンに臨むことができますから。それに、クラブごとにいろんなチームづくりの考え方があると知れたのも僕にとっては大きかったです。人生経験豊かな強化部の方たちといろんな話をすることで、選手としてだけではなく、ひとりの人間として学べたことも多かった」
そうした考えのもと、所属したJクラブは清水エスパルス、横浜F・マリノス、鹿島アントラーズ、横浜FC、松本山雅FCの5つ(松本は横浜FCから半年間の期限付き移籍)。うち、国内キャリアにおける最初のターニングポイントは、初めてのJ1リーグを戦った清水での4シーズンにあるという。
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