高校卒業後、即海外クラブ入りした伊藤翔「仮に高校時代に戻ってキャリアを選択するとなっても、同じ道を選ぶ」 (3ページ目)
「監督から海外の話を聞いたあとの帰り道だったか、車を運転していた父と助手席に座っていた母に向かって、後部座席から『俺が海外に行ったらどうする?』って聞いたんです。そしたらふたりとも、こっちをまったく見ずにひと言だけ『いいんじゃない』と。きっとふたりで答えを決めていたのかも。
だって運転中の父はともかく助手席の母ですら、後ろを振り向こうとしなかったから(笑)。おそらく寂しい思いを押し殺していたんじゃないかな。それに対して、僕も『"いいんじゃない"をもらえたから行ってくるわ』と。無知がゆえに飛び込めたところもあったかもしれないけど、怖いとか、不安とか、そういう気持ちはいっさいなかった」
ただ、今になって振り返ると「とにかく情報不足だったのは否めない」とも言葉を続ける。
「大人になった自分が当時の自分に声を掛けるなら、『もっと、インターネットで調べられただろ?』ってことを一番に言いたいです。そのくらいプロになることに関しても、海外でプレーをすることについても、まったくアンテナを張れていなかった。
SNSもさほど普及していなかったし、LINEなんて便利なものはなかった時代で、スカイプくらいしか連絡を取る手段がなかったとはいえ、とにかく行ってから知る、直面して学ぶみたいなことが多すぎました」
そう考えるのは、グルノーブルの2シーズン目に太もも裏を痛めて長期離脱を強いられたからでもある。海外でのプレーにおいても、少しずつプレーの手応えを感じられるようになっていた矢先の大ケガはキャリアを大きく揺るがした。
「高校時代に備えた"型"があった分、正直、グルノーブルでも技術面では通用する実感がありました。当時の日本は『止めて、動かして、出す』みたいな2タッチでのプレーがよしとされていたのに対し、海外ではもうその時代に『ボールを足元でピタッと止めて相手の動きを止め、そこからプレーに入る』みたいなことを当たり前にやっていましたけど、それにも自分では適応できていたと思っています。むしろ、時間が経つにつれ、今の自分にフィジカルが備わったらチームでの生き方、生かされ方が見つけられそうな感じもしていました。
でも、その矢先の2シーズン目に太もも裏を痛めてしまい......。しかも肉離れだと思ってリハビリしていたら、復帰しても1日でまた切れる、みたいな状態を4回ほど繰り返したんです。そこで、クラブに『いったん、日本に戻って検査させてほしい』とお願いして帰国したら肉離れではなく、腱が切れてしまっていた。
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