鹿島アントラーズで「プロでも戦える選手になった」41歳・中島裕希が振り返る、波乱万丈のサッカー人生 (2ページ目)
「そもそも、僕は全国高校サッカー選手権大会にも1年生の時しか出場できなかったので、鹿島に加入できたこと自体、運がよかったと思っています。プロになることは目標にしていたものの、鹿島に決まるのも遅くて、もしどこからも声がかからなければ、地元の社会人チームで、カターレ富山の前身であるYKK APサッカー部や、北陸電力サッカー部アローズ北陸でプレーできたらいいなと思っていました。
それが運よく鹿島に声を掛けていただいて......2003年の新加入選手は、深井正樹さんと僕のふたりだったのに、そのうちのひとりに選んでもらえたのは本当にラッキーでした。しかも、僕が加入したシーズンに同じFWのヤナギさん(柳沢)が海外移籍をされたこともあって、1年目の途中から公式戦にも絡めましたしね。それ以外にも、サテライトリーグへの出場や、ふだんの練習から代表クラスのセンターバック陣と対峙することで学ぶこともたくさんありました。
また、僕は高校時代から身体能力でサッカーをしていたタイプでしたが、そこはプロの世界でもめちゃめちゃ自信があったので、スピードを生かした裏への飛び出しといったよさを発揮して......というか、周りのクオリティに助けられ、生かしてもらいながら、プロの世界でも戦える選手になっていった気がします。当時の鹿島のチームメイトに会うと、総じて『おまえがこんなに長く現役でいるとは思っていなかった』って言われますけど(笑)」
そんなふうに、鹿島で過ごした時間が"成長"につながっていると確信したのは、J2の仙台に期限付き移籍をした2006年以降だ。戦うステージはJ2リーグに下がったとはいえ、その当時のことを中島は「最初からすごくラクにプレーできる気がした」と振り返る。
それが公式戦の舞台で余すことなく表現されたのは、2年目の2007年だ。シーズンを通してほとんどの試合に先発出場した彼は、プロキャリアで初のふた桁得点を実現。これを受けて仙台への完全移籍を決断すると、その後もチームの主軸として存在感を発揮し、2009年にはクラブのJ2リーグ初優勝にも貢献した。
「まだまだガムシャラに勢いでプレーしていた時期でしたが、正直、点にはこだわっていなかったというか。もともと、点をバンバン決めることより、アシストも裏抜けもできるし、スピードでも切り裂けて、シュートも打てる、というような"なんでもできるFW"が理想だったので、仙台でもそこは常に意識していました」
その言葉どおり、中島は今も自身を"ストライカー"と思ったことはないという。もちろん、FWという肩書きがつく以上、数字にこだわらなければいけないことは自覚している。だが、逆にそこに固執しすぎずに、自分らしさを追求してプレーの幅を広げてきたことも、キャリアで関わったさまざまな監督に"求められる選手"であり続けた理由かもしれない。
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