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「引退」への気持ちが固まっていた34歳・元日本代表MFの考えを一変させた家族の言葉「心の炎が燃え上がった」 (3ページ目)

  • 高村美砂●取材・文 text&photo by Takamura Misa

 そのキャリアに最初のブレーキがかけられたのは、日本代表として2010年1月に戦ったアジアカップ予選・イエメン戦だろう。同試合で右腓骨骨折を負った山田は6月に戦列に復帰したものの、8月に再び同箇所を骨折。残りのシーズンをリハビリに費やすことになる。彼の言葉を借りれば、「絶頂と絶望の1年」は、幼少期から自身の体に擦り込ませてきたプレーの"感覚"を少しずつ蝕(むしば)んでいった。

「最初に腓骨を骨折した時も、2回目も、治りさえすればまたサッカーができると思って、リハビリには前向きに取り組んでいたんです。でも、いざ復帰してみたら、体のキレというか、感覚というか、表現が難しいんですけど、考えずとも自然にできていたプレーができなくなってしまっていた。

 頭と体の感覚が合わなくなったというのかなぁ。その時に、これがピッチを離れる代償なのか、と思い知りました。それでもプレーを続けていたら、少しずつ感覚は戻ってきたんですけど、2012年3月に今度は左膝前十字靭帯を断裂してしまって。しかも、なかなかよくならず、結果的に1年4カ月くらい時間がかかって2014年の夏に復帰しました。

 そしたら、サッカーをしているのかもわからなくなるくらい、自分のなかにあったはずの"感覚"がなくなってしまっていたんです。ピッチのどこに立てばいいのか、その時々で何をすべきかすらわからなくなっていました」

 とはいえ、2度の腓骨骨折を負ったあとと同じように、プレーを続けていればいつかは取り戻せると信じて戦い続けたが、いつまでたっても自身の軸にしてきた"感覚"が戻ってこない。以降も「絶望の淵に突き落とされたような状態」から抜け出すことはできなかった。

「こんな感じでプレーしているなら、プロサッカー選手として生きているべきじゃない」

 しかしながら、自分を諦めきれず、「環境を変える以外に、自分を再生する道はない」と、初めて浦和を離れる決断をしたのは、2014年末だ。

 期限付き移籍先に選んだのは、湘南ベルマーレ。いくつか声をかけてもらったクラブのなかから、ある意味、自身が携わってきたサッカーとは、真逆のスタイルで戦うクラブを選んだ。

「当時の湘南は曺(貴裁)監督のもと、(2014年の)J2をぶっちぎりで優勝してJ1に昇格していたし、そのサッカースタイルのなかで、はたしてプレーできるのかという不安はありました。自分がすぐにJ1で試合に出られる状態にあるとも思えなかっただけに、J2のクラブで試合経験を重ねたほうがいいんじゃないか、と考えたこともあります。でも、曺さんの熱量や想いに触れて、この人のもとでサッカーをしたいと思った。

 ただ......僕は今でも、あの時の湘南からのオファーを、戦力としてというより、僕をもう一度ピッチに立たせてやりたい、という曺さんの優しさのオファーだったと受け止めています。だって、戦力として求めてくれているなら、会話のなかで『湘南を助けてくれ』とか『一緒に戦おう』って言葉が出てくるはずなのに、曺さんはひたすら『必ず、おまえを再生させる。俺のところに来い』だったから。しかも、それまでなんら面識がなかった僕を、ですからね。その想いは本当にありがたかったし、実際に加入してからもめちゃめちゃ手を焼いていただきました」

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