「引退」への気持ちが固まっていた34歳・元日本代表MFの考えを一変させた家族の言葉「心の炎が燃え上がった」 (2ページ目)
しかも、小松裕志社長が描く『岐阜で一番愛されるクラブになりたい』というビジョンや『子どもたちに夢を』という理念にもすごく惹かれたというか。僕自身、キャリアを重ねるなかで『子どもたちや社会に対して、サッカーで何を還元できるのか』を考えることが増えていただけに、すごく共感が持てた。また、僕の力を貸してほしいっていう言葉もすごく刺さって、その想いに応えられる自分でありたいと思いました。
それだけに今、こうしてコンディション調整が続いているのはもどかしいんですけど、僕はそれを含めて山田直輝だと思っているので。プロになってからはずっとケガと歩んできたキャリアだったと考えても、今の自分をしっかり受け入れているし、ここから必ず巻き返せると信じています」
彼の言葉にもあるとおり、ケガとともにキャリアを歩んできた。
浦和レッズのアカデミーで育った山田が、トップチームに昇格したのは2009年。前年度に2種登録選手としてトップチームデビューを飾っていた彼は、1年目からフォルカー・フィンケ監督によってその才能を評価され、J1開幕戦からメンバー入りを果たす。
プロとして初めてJ1のリーグ戦に出場したのは、第2節のFC東京戦だ。途中出場ながら、初アシストを刻むと、第4節の大分トリニータ戦で先発に抜擢。以降も、コンスタントに先発のピッチに立つなかで、同年5月には日本代表に初選出され、同27日のキリンカップ・チリ戦で日本代表デビューを飾る。まさに、順風満帆の滑り出しだった。
「正直、2種登録選手の時はまったく自分のプレーが出せなかった分、トップチームに昇格した2009年は『わがままでもいいから自分のプレーを出そう』と腹をくくったんです。当時の、個性派の先輩方が顔をそろえるレッズで、今になって考えると我ながらすごいなって思いますけど(笑)、2種登録選手として過ごした1年間があったから、そういう気持ちになれたんだと思います。
実際、1年目から自分を出せなければ、このチームではプレーできないって思っていたし、何より、スタジアムを真っ赤に染めるレッズサポーターの前で自分のプレーを見せたかった」
同じタイミングでトップチームに昇格した高橋峻希(現Y.S.C.C.横浜)や原口元気(浦和)らの存在も、刺激になった。
「3人、すごく仲がよかったんですけど、一方で、誰が試合に出る、誰がベンチに入った、誰がメンバーに入っていないのか、っていうふうに、1年目からお互いをすごくライバル視していました。その関係性も自分を高めてくれる要素のひとつでした」
怖いものは何もなく、当時はただただ、チャレンジできるのがありがたい、うれしいという気持ちで突き進んでいたという。唯一、日本代表に招集された際に、錚々たる顔ぶれを前に気後れして自分を出しきれなかったのは「もったいなかった」と振り返ったが、その経験を含め、必死になってサッカーに食らいつく日々が幸せで、楽しかった。
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