森脇良太が衝撃を受けた「人生の恩師」ミシャの言葉 「こんな監督がいるのか」
引退インタビュー
森脇良太(愛媛FC)中編
◆森脇良太・前編>>現役生活20年の原点「公園の水道をシャワー替わりに...」
決してエリート街道を歩んできたわけではない。しかし、遠回りしたからこそ、森脇良太はサッカー選手として20年間もプレーできたという。
ユース時代に認められた才能は、愛媛FCで2年間かけて少しずつ育ち、2008年にサンフレッチェ広島で一気に開花する。そのきっかけは「人生の恩師」との出会いだ。
多大な影響を受けて急成長し、日本代表まで上り詰めていった過程を振り返る。
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森脇良太が恩師・ミシャについて思いを語る photo by Sano Mikiこの記事に関連する写真を見る── 愛媛の2年間を経て、2008年に広島に戻ってきます。帰って来いと言われた時はどんな気持ちでしたか。
「広島に帰れるうれしさと喜びが強かったし、その年の広島はJ2に落ちた時でしたけど、なんとか広島を盛り上げたい、貢献したいという気持ちでした。その時のメンバーには槙野(智章)もいたし、(柏木)陽介もいて、自分よりも年下のメンバーが主力として活躍していたので、あいつらには絶対に負けないという思いで広島に帰ったのを今でも覚えています」
── 復帰した広島では、人生の恩師とも言えるミハイロ・ペトロヴィッチ監督との出会いがありました。特殊なスタイルのサッカーにフィットするのは難しかったのでは?
「練習が複雑でしたからね。それこそゲームもオールワンタッチだったり、ビブスの色を変えたりして、いろんな制限があったなかで、かなり頭を使いました。
最初の頃はついていくのに必死で、とにかくガムシャラにやっていましたよ。半年ぐらいは試合に出られなかったんですけど、出られないことも納得していたというか、もっともっと力をつけないとダメだなっていうのは理解していました」
── シーズン途中からポジションを掴みましたが、どのあたりを評価されたと思いますか。
「ミシャは『あなたのいいところは、攻撃的にボールにかかわることができること。パスを前につけられること。そこをしっかりと出してほしい』と言ってくれていました。僕もそこには自信があったので、自分のプレーを表現するという意味ではやりやすかったかなと。監督の求めるものと、自分のスタイルがマッチしたっていうのはありましたね」
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著者プロフィール
原山裕平 (はらやま・ゆうへい)
スポーツライター。1976年生まれ、静岡県出身。2002年から『週刊サッカーダイジェスト』編集部に所属し、セレッソ大阪、浦和レッズ、サンフレッチェ広島、日本代表などを担当。2015年よりフリーランスに転身。