守田英正×脇坂泰斗 フロンターレの同期が互いの成長を実感「海外に行けたのも、俺のおかげ」 (2ページ目)
この記事に関連する写真を見る守田 だから自分も日々、技術的にうまくなっているという感覚を得ることができていた。また、それを自分は求めていたし、自分の技術がおぼつかなくても、ずっと楽しいって思えていた理由のように思います。
── プロ1年目は、守田選手がリーグ戦26試合に出場したのに対して、脇坂選手はリーグ戦で出場機会を得ることはできませんでした。同期として意識するところは?
脇坂 ヒデ(守田)よりは、自分のほうがやっぱり意識はしていたと思います。ただ、焦りといった感情ではなかったかな。
ヒデだけでなく、大学選抜で一緒にプレーしていた選手たちが、それぞれのチームで試合に出ていて、出場機会を得られていないのは僕くらいだったということは考えました。だから、ヒデだけというのではなく、同世代を意識していたかな。
守田 それに、フロンターレが4-2-3-1で戦っていた当時、僕が務めていたボランチは2枠あった。一方で、出場するならばトップ下だった泰斗が、ポジションを争っていた相手は(中村)憲剛さんだった。それを考えると、自分よりも泰斗のほうが試合に出るのは容易ではなかったですよね。
実際、僕もデビュー戦はSBでしたし、監督から起用してもらえるポジションの幅が広かったこともあったと思っています。ただ、自分が試合に出ているからといって、泰斗に気を遣ったことは一度もなかった。
脇坂 試合に出ていても、ヒデが僕に気を遣わなかったことは、助けられたように思います。接していて、僕自身が「気を遣われているな」って感じてしまうことのほうが嫌じゃないですか。気を遣われていることがわかってしまうと、僕自身も接し方を変えなければいけなくなる。でも、ヒデにはまったくそんな素振りはなかった。
守田 でも、泰斗がデビューした天皇杯(2回戦)のソニー仙台戦で、先発しながら前半途中に......。
脇坂 前半の37分に交代した試合?
守田 うん。あの時は「相当、苦しんでいるんだろうな」って思った。さすがにひと言、声をかけようかと悩んだけど、そこで俺が優しい言葉をかけるのはやっぱり違うなって思った。だからあの時も、いつもと変わらない態度でいようとした。
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