森島寛晃は相棒・西澤明訓と終始無言で移動。優勝チームからの「ありがとう」の言葉に何も返せなかった (4ページ目)

  • 佐藤俊●取材・文 text by Sato Shun
  • photo by Getty Images

「そう言われても何も返せないですよ。どういたしましてとは言われへんからね」

 苦い思いをしたが、モロッコの地でふたりは、ともにゴールを挙げ、ジダン率いるフランスと2-2のドロー(PK負け)を演じる活躍を見せた。

 あれから5年が経過したが、セレッソは初タイトルを寸前のところで逸してきた。天皇杯決勝に進出した2001年度は清水エスパルスに、2003年度はジュビロ磐田に敗れ、悔し涙に濡れた。「勝負弱いセレッソ」と揶揄されたが、2005年シーズン、セレッソは、猛烈なまくりを見せ、首位のG大阪が3連敗したなか、33節でついに首位に立った。悲願の初タイトルのチャンスが巡ってきたのである。

「この時は、(最終節の)FC東京戦までの1週間、2000年の時のようにメディアがたくさん来て、すごく盛り上がった感はあったんですが、選手はドタバタする感じは全然なくて冷静でした。(シャンパンファイトの時の)ゴーグルは何をもっていくとか、そういう話もまったくしていなかったですね(笑)。自分たちのすべきことがわかっていましたし、いい緊張感を持って準備ができたと思います」

 最終節は、5チームに優勝の可能性があった。首位のセレッソは、勝利すればすんなり優勝が決まる。ただ、引き分けになると勝ち点1差で2位にG大阪がつけており、さらに勝ち点2差で3位浦和レッズ、4位鹿島、5位ジェフユナイテッド市原・千葉が続き、得失点差でひっくり返される可能性があった。試合結果によっては5チームに優勝のチャンスがあるというJリーグ史上初の大混戦になっていたのである。

 2005年12月3日、セレッソはホームにFC東京を迎えた。長居スタジアムは、過去3度の悪夢を振り払うべく満員に膨れ上がっていた。

「まるで決勝戦みたいな最終戦やな」

 森島は、ある選手の言葉を胸に秘めて長居のピッチに飛び出していった。

(文中敬称略/つづく)

森島寛晃(もりしま・ひろあき)
1972年4月30日生まれ。広島県出身。静岡県の名門、東海大学第一高校(現:東海大学付属静岡翔洋高校)から、1991年にヤンマーディーゼルサッカー部に入団。同チームが母体となったセレッソ大阪が1995年からJリーグに参入。1年目から二桁得点を決めるなど、チームにとって不可欠な存在となり、「ミスターセレッソ」「モリシ」の愛称でサポーターから親しまれた。日本代表として1998年、2002年ワールドカップ出場。チュニジア戦で得点を決めた。08年に現役を引退。その後、チームのアンバサダーや強化部を経て、2018年12月より株式会社セレッソ大阪代表取締役社長に就任した。

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