森島寛晃は相棒・西澤明訓と終始無言で移動。優勝チームからの「ありがとう」の言葉に何も返せなかった

  • 佐藤俊●取材・文 text by Sato Shun
  • photo by Getty Images

私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第20回
最終節に首位から陥落した悲劇の裏側~森島寛晃(1)

 セレッソ大阪において、ルヴァン杯、天皇杯のタイトル獲得は輝かしい歴史の一部だ。その一方でリーグ戦は2度、優勝に手をかけたが、いずれも最後に擦り落ちていった。とりわけ2005年のリーグ戦は、徐々に順位を上げ、ラストゲームに勝てば優勝という最高の舞台が整ったが、信じられないような結末を迎えた。2000年に続き、「長居の悲劇」と称された2005年の最終戦、エースナンバー8番を背負った森島寛晃の目に焼きつけられたのは、いったい何だったのだろうか――。

 "タイトル獲得"

 2005年シーズン開幕前、森島寛晃は絵馬にそう書いた。それはプロになってから毎年、書き続けてきた願い事だった。今年こそはの気持ちでシーズンインしたが、セレッソ大阪は最悪のスタートをきった。開幕戦のヴィッセル神戸戦、続く横浜 F・マリノス戦、大宮アルディージャ戦と3連敗を喫したのだ。

「あの開幕3連敗、覚えています(苦笑)。どの試合も勝ちきれなかったし、シーズンスタートで結果が出ないというのは、正直、不安な部分がありました。内容的にはめちゃくちゃ悪くないのに、なんで結果が出えへんのやろっていうジレンマもありましたね」

 この前シーズン、セレッソは開幕から右往左往し、監督が3人も交代、第1ステージは最下位に終わった。第2ステージは小林伸二が4人目の監督として就任し、残留争いに巻き込まれたが、かろうじてJ1残留を果たした。05年は小林監督が継続し、ブルーノ・クアドロス、ファビーニョ、ゼ・カルロスら外国人選手を獲得し、チームの建て直しを計るなか、いきなりつまずいたのだ。

「結果が出ないとチームとしての自信を失ってズルズルいってしまう。ひとつ勝てば、前向きに気持ちを切り替えていけるので、次の名古屋(グランパスエイト)戦がめちゃ大事やなって思っていました」

 4節の名古屋戦で、セレッソは初勝利を挙げた。その後、11節の清水エスパルス戦まで負けなしとチームは調子を取り戻し、シーズンの折り返しでは6勝6敗5分の10位につけていた。

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