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玉田圭司が影響を受けたストイチコフ、フォルランら。ミスしても「もっといいパスを出せよ、みたいな図太さがあった」 (2ページ目)

  • 井川洋一●取材・文 text by Igawa Yoichi
  • photo by Getty Images

【たくさんのワールドクラスに影響を受けた】

 そのブラジル戦のゴールのほか、本人は名古屋グランパス時代の2010年11月の湘南ベルマーレ戦で奪った得点も印象深いと振り返る。珍しく頭で決めたゴールは、名古屋にここまで唯一のJ1優勝をもたらした決勝点だ。試合後、リーグ制覇が決まったことを知ると、当時30歳のアタッカーは感涙に濡れた。自身にとっても唯一のJ1タイトルを手にしたこの頃が、キャリアでもっとも充実していたと言う。

「(プロデビューした)柏レイソルの時と違って、チームを勝たせるためにどうするかを考え始めた頃でした。そして小さな頃に憧れていたピクシー(ドラガン・ストイコビッチ)が、監督として自分の目の前に立つようになり、クラブは最盛期を迎えていく。あの時の名古屋には、ジョシュア・ケネディ、藤本淳吾、田中隼磨、アレックスら、自分と呼吸の合う選手も多かったし、互いに尊重しながらプレーできていたと思います」

 ちょうどその頃、世界のフットボールシーンには、本当の意味で革新的な指導者とチームが現れた──ジョゼップ・グアルディオラ監督と彼に率いられたバルセロナだ。この競技の風景を変えた彼らには、玉田も特大の衝撃を受けたと言う。

「僕が言うのもおこがましいですけど、自分が理想と考えているスタイルを具現化してくれたのが、グアルディオラのバルサでした。あれは僕のなかで究極。自分のサッカー観も変わりましたね」

 それもあってスペインをはじめ、海外への憧れも抱いていたが、国外のクラブでプレーすることは最後まで叶わなかった。それでも自らのキャリアに「後悔はない」し、Jリーグでも真のワールドクラスと触れ合う機会はあった。

 柏では洪明甫やフリスト・ストイチコフ、セレッソ大阪ではディエゴ・フォルランと親しくしていたという。なかでも、玉田に強烈な印象を残したのは、1994年のアメリカW杯でブルガリアをベスト4に導いたストイチコフだ。"ドリームチーム"と呼ばれたバルセロナでは、グアルディオラとも共演した左利きのアタッカーは、若き日の玉田にこのスポーツの本質を教えてくれた。

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