浦和サポに土下座した清水の守護神。今も愛され続ける「クモ男」

  • 津金壱郎●文 text by Tsugane Ichiro
  • photo by Getty Images

 Jリーグ28年の歴史のなかでサポーターによる署名活動はたびたび行なわれ、社長交代、監督交代、クラブ存続......さまざまな要望が出されてきた。

 そのなかで、一度は退団会見まで行なった選手の復帰を求め、そして実際にクラブが復帰へと舵を切ったケースとなると、この選手をおいてほかにはいないだろう。

Jリーグ創成期を代表する清水エスパルスの守護神Jリーグ創成期を代表する清水エスパルスの守護神 シジマール・アントニオ・マルチンス。

 Jリーグ創成期の清水エスパルスでプレーし、長い手足を伸ばしてシュートストップする姿から、『クモ男』のニックネームがつけられたGKだ。

 1962年6月13日生まれのシジマールは17歳でグアラニからプロデビューし、19歳だった1981年にU−20ブラジル代表に選出。20代は国内のクラブを転々とするキャリアを送ったが、31歳になった1993年に来日を果たし、2ndステージから清水の一員となった。

 Jリーグ開幕年の清水は1stステージ10勝8敗で4位ながらも、総失点25は10チームで下から4番目の多さ。2ndステージに向けた課題は守備の立て直しにあったなか、元日本代表DFの加藤久を獲得するなどしたが、課題解消の決定打になったのがシジマールだった。

 立役者の入団の経緯は、当時の清水の監督であり、ブラジル代表GKとしては1970年、1974年、1978年、1986年の4大会でW杯を戦ったエメルソン・レオンの誘いがあったから。当時のJリーグに来るブラジル選手にありがちなパターンだ。

 ブラジルのキンゼ・デ・ノベンブロから7カ月間のレンタル契約で、契約金は700万円。ゲイリー・リネカーやジーコなど、億を超える金額をもらう外国人選手と比べたら格安だ。

 しかも、この時点でシジマールに与えられた役割はGKコーチだった。ただ、シジマールが「僕は試合に出場するために日本に来たんだ」と直訴したことで選手登録され、コーチ兼任で正GK真田雅則の控えGKの役割を手にした。

 Jリーグデビューの機会は、思いのほか早く訪れる。2ndステージ第2節でゴールマウスを守ると、第3節からは6試合連続無失点を記録。正守護神の座をガッチリと掴み取り、選手一本に専念することになった。

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